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最判平23.6.7浅沼免許取消

平成21(行ヒ)91 一級建築士免許取消処分等取消請求事件 平成2367日第三小法廷 判決 破棄自判 民集 第6542081

 

札幌高等裁判所 平成20(行コ)9 平成201113

 

判示事項

公にされている処分基準の適用関係を示さずにされた建築士法(平成18年法律第92号による改正前のもの)10条1項2号及び3号に基づく一級建築士免許取消処分が,行政手続法14条1項本文の定める理由提示の要件を欠き,違法であるとされた事例

裁判要旨

建築士法(平成18年法律第92号による改正前のもの)10条1項2号及び3号に基づいてされた一級建築士免許取消処分の通知書において,処分の理由として,名宛人が,複数の建築物の設計者として,建築基準法令に定める構造基準に適合しない設計を行い,それにより耐震性等の不足する構造上危険な建築物を現出させ,又は構造計算書に偽装が見られる不適切な設計を行ったという処分の原因となる事実と,同項2号及び3号という処分の根拠法条とが示されているのみで,同項所定の複数の懲戒処分の中から処分内容を選択するための基準として多様な事例に対応すべくかなり複雑な内容を定めて公にされていた当時の建設省住宅局長通知による処分基準の適用関係が全く示されていないなど判示の事情の下では,名宛人において,いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかを知ることができず,上記取消処分は,行政手続法14条1項本文の定める理由提示の要件を欠き,違法である。
(補足意見及び反対意見がある。)

参照法条

行政手続法12条,行政手続法14条,建築士法(平成18年法律第92号による改正前のもの)101項,建築士の処分等について(平成111228日建設省住指発第784号都道府県知事宛て建設省住宅局長通知。平成19620日廃止前のもの)(附則を除く。),建築士の処分等について(平成111228日建設省住指発第784号都道府県知事宛て建設省住宅局長通知。平成19620日廃止前のもの)別表第1(1を除く。)

 

主 文

原判決を破棄し,第1審判決を取り消す。

国土交通大臣が上告人X1に対し平成18年9月1日付けでした一級建築士免許取消処分を取り消す。

北海道知事が上告人X2に対し平成18年9月26日付けでした建築士事務所登録取消処分を取り消す。

訴訟の総費用は被上告人らの負担とする。

 

理 由

上告代理人川守田大介の上告受理申立て理由第1,第2,第6について

本件は,一級建築士として建築士事務所の管理建築士を務めていた上告人

X1が,国土交通大臣から,建築士法(平成18年法律第92号による改正前のもの。以下同じ。)10条1項2号及び3号に基づく一級建築士免許取消処分(以下「本件免許取消処分」という。)を受け,これに伴い,同事務所の開設者であった上告人X2(以下「上告会社」という。)が,北海道知事から,同法26条2項4号に基づく建築士事務所登録取消処分(以下「本件登録取消処分」という。)を受けたため,上告人らにおいて,本件免許取消処分は,公にされている処分基準の適用関係が理由として示されておらず,行政手続法14条1項本文の定める理由提示の要件を欠いた違法な処分であり,これを前提とする本件登録取消処分も違法な処分であるなどとして,これらの各処分の取消しを求めている事案である。

 

原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。

(1) 上告人X1は,昭和56年に一級建築士免許を取得し,上告会社が開設する建築士事務所の管理建築士を務めていた。

(2) 国土交通大臣は,上告人X1に対し,平成18年9月1日付けで,本件免許取消処分をした。その通知書には,処分の理由として,次のとおり記載されていた。

「あなたは,北海道札幌市中央区南条西丁目,北海道札幌市厚別区厚別中央丁目,北海道札幌市豊平区平岸丁目,北海道札幌市北区北条西丁目,北海道札幌市中央区北条西丁目,北海道札幌市中央区南条西丁目,北海道札幌市中央区南条西丁目を敷地とする建築物の設計者として,建築基準法令に定める構造基準に適合しない設計を行い,それにより耐震性等の不足する構造上危険な建築物を現出させた。

また,北海道札幌市東区北条東丁目,北海道札幌市豊平区豊平丁目,北海道札幌市豊平区月寒西丁目,北海道札幌市豊平区月寒中央通丁目,北海道札幌市白石区南郷通丁目北を敷地とする建築物の設計者として,構造計算書に偽装が見られる不適切な設計を行った。

このことは,建築士法第10条第1項第2号及び第3号に該当し,一級建築士に対し社会が期待している品位及び信用を著しく傷つけるものである。」

(3) 北海道知事は,上告人X1に対し本件免許取消処分がされたことを受けて,上告会社に対し,平成18年9月26日付けで,本件登録取消処分をした。

(4) 建築士法10条1項は,建築士が「この法律若しくは建築物の建築に関する他の法律又はこれらに基づく命令若しくは条例の規定に違反したとき」(2号)「業務に関して不誠実な行為をしたとき」(3号)においては,免許を与えた国土交通大臣又は都道府県知事は,当該建築士に対する懲戒処分として,「戒告を与え,1年以内の期間を定めて業務の停止を命じ,又は免許を取り消すことができる。」と定めている。

本件免許取消処分がされた当時,建築士に対する上記懲戒処分については,意見公募の手続を経た上で,「建築士の処分等について」と題する通知(平成11年12月28日建設省住指発第784号都道府県知事宛て建設省住宅局長通知。平成19年6月20日廃止前のもの)において処分基準(以下「本件処分基準」という。)が定められ,これが公にされていた。本件処分基準によれば,その別表第1に従い,処分内容の決定を行うこととされており,上記別表第1の(2)は,建築士が建築士法10条1項2号又は3号に該当するときは,「表2の懲戒事由に記載した行為に対応する処分ランクを基本に,表3に規定する情状に応じた加減を行ってランクを決定し,表4に従い処分内容を決定する。ただし,当該行為が故意によるものであり,それにより,建築物の倒壊・破損等が生じたとき又は人の死傷が生じたとき(以下「結果が重大なとき」という。)は,業務停止6月以上又は免許取消の処分とし,当該行為が過失によるものであり,結果が重大なときは,業務停止3月以上又は免許取消の処分とする。」と定めていた。また,上記別表第1の表2は,「違反設計」に対応する処分ランクを「6」とし,「不適当設計」に対応する処分ランクを「2~4」とし,「その他の不誠実行為」に対応する処分ランクを「1~4」とするなど,懲戒事由の類型ごとに処分ランクを定め,表3は,その処分ランクから,「過失に基づく行為であり,情状をくむべき場合」には1~3を減じ,「法違反の状態が長期にわたる場合」「常習的に行っている場合」には3を加えるなど,情状等による処分ランクの加減方法を定め,表4は,このようにして決定された処分ランクが「2」の場合は「戒告」とし,「3」ないし「15」の場合はそれぞれ「業務停止1月未満」ないし「業務停止1年」とし,「16」の場合は「免許取消」とするなど,処分ランクに対応する処分等(文書注意を含む。)の内容を定めるとともに,複数の処分事由に該当する場合の処理について,「二以上の処分等すべき行為について併せて処分等を行うときは,最も処分等の重い行為のランクに適宜加重したランクとする。ただし,同一の処分事由に該当する複数の行為については,時間的,場所的接着性や行為態様の類似性等から,全体として一の行為と見うる場合は,単一の行為と見なしてランキングすることができる。」などと定めていた。

(5) 上告人らは,本件訴訟の提起の段階で,本件免許取消処分の根拠は本件処分基準の別表第1の(2)本文であると理解していたが,被上告人国は,本件訴訟において,本件免許取消処分の根拠を,主位的に,同(2)ただし書であると主張し,予備的に,同(2)本文であると主張した。

 

原審は,上記事実関係等の下において,次のとおり判断し,本件免許取消処分に行政手続法14条1項本文の定める理由提示の要件を欠いた違法はなく,その余の違法事由も認められず,本件登録取消処分にも違法はないとして,上告人らの請求をいずれも棄却すべきものとした。

行政手続法14条1項本文が,不利益処分をする場合に当該不利益処分の理由を示さなければならないとしている趣旨は,一級建築士に対する懲戒処分の場合,当該処分の根拠法条(建築士法10条1項各号)及びその法条の要件に該当する具体的な事実関係が明らかにされることで十分に達成できるというべきであり,更に進んで,処分基準の内容及び適用関係についてまで明らかにすることを要するものではないと解すべきである。国土交通大臣は,本件免許取消処分の通知書の中で具体的な根拠法条及びその要件に該当する具体的な事実関係を明らかにしているから,十分な理由が提示されていたといえる。

 

しかしながら,原審の上記判断は是認することができない。その理由は,以下のとおりである。

行政手続法14条1項本文が,不利益処分をする場合に同時にその理由を名宛人に示さなければならないとしているのは,名宛人に直接に義務を課し又はその権利を制限するという不利益処分の性質に鑑み,行政庁の判断の慎重と合理性を担保してその恣意を抑制するとともに,処分の理由を名宛人に知らせて不服の申立てに便宜を与える趣旨に出たものと解される。そして,同項本文に基づいてどの程度の理由を提示すべきかは,上記のような同項本文の趣旨に照らし,当該処分の根拠法令の規定内容,当該処分に係る処分基準の存否及び内容並びに公表の有無,当該処分の性質及び内容,当該処分の原因となる事実関係の内容等を総合考慮してこれを決定すべきである。

この見地に立って建築士法10条1項2号又は3号による建築士に対する懲戒処分について見ると,同項2号及び3号の定める処分要件はいずれも抽象的である上,これらに該当する場合に同項所定の戒告,1年以内の業務停止又は免許取消しのいずれの処分を選択するかも処分行政庁の裁量に委ねられている。そして,建築士に対する上記懲戒処分については,処分内容の決定に関し,本件処分基準が定められているところ,本件処分基準は,意見公募の手続を経るなど適正を担保すべき手厚い手続を経た上で定められて公にされており,しかも,その内容は,前記2(4)のとおりであって,多様な事例に対応すべくかなり複雑なものとなっている。

そうすると,建築士に対する上記懲戒処分に際して同時に示されるべき理由としては,処分の原因となる事実及び処分の根拠法条に加えて,本件処分基準の適用関係が示されなければ,処分の名宛人において,上記事実及び根拠法条の提示によって処分要件の該当性に係る理由は知り得るとしても,いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって当該処分が選択されたのかを知ることは困難であるのが通例であると考えられる。これを本件について見ると,本件の事実関係等は前記2のとおりであり,本件免許取消処分は上告人X1の一級建築士としての資格を直接にはく奪する重大な不利益処分であるところ,その処分の理由として,上告人X1が,札幌市内の複数の土地を敷地とする建築物の設計者として,建築基準法令に定める構造基準に適合しない設計を行い,それにより耐震性等の不足する構造上危険な建築物を現出させ,又は構造計算書に偽装が見られる不適切な設計を行ったという処分の原因となる事実と,建築士法10条1項2号及び3号という処分の根拠法条とが示されているのみで,本件処分基準の適用関係が全く示されておらず,その複雑な基準の下では,上告人X1において,上記事実及び根拠法条の提示によって処分要件の該当性に係る理由は相応に知り得るとしても,いかなる理由に基づいてどのような処分基準の適用によって免許取消処分が選択されたのかを知ることはできないものといわざるを得ない。このような本件の事情の下においては,行政手続法14条1項本文の趣旨に照らし,同項本文の要求する理由提示としては十分でないといわなければならず,本件免許取消処分は,同項本文の定める理由提示の要件を欠いた違法な処分であるというべきであって,取消しを免れないものというべきである。

そして,上記のとおり本件免許取消処分が違法な処分として取消しを免れないものである以上,これを前提とする本件登録取消処分もまた違法な処分として取消しを免れないものというべきである。

 

以上と異なる原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,上告人らの請求は理由があるから,第1審判決を取り消し,上告人らの請求をいずれも認容すべきである。

よって,裁判官那須弘平,同岡部喜代子の各反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官田原睦夫の補足意見がある。

 

裁判官田原睦夫の補足意見は,次のとおりである。

私は,多数意見に与するものであるが,本件において反対意見が存することに鑑み,多数意見の論拠等につき以下に私の理解するところを少しく敷衍するとともに,反対意見をも踏まえて多数意見を補足する。

行政処分の理由付記に関する判例法理及び学説について

昭和30年代後半以降の幾多の判例(最高裁昭和36年(オ)第84号同38年5月31日第二小法廷判決・民集17巻4号617頁,最高裁昭和57年(行ツ)第70号同60年1月22日第三小法廷判決・民集39巻1号1頁,最高裁平成4年(行ツ)第48号同年12月10日第一小法廷判決・裁判集民事166号773頁ほか)の積重ねを経て,今日では,許認可申請に対する拒否処分や不利益処分をなすに当たり,理由の付記を必要とする旨の判例法理が形成されているといえる(この判例法理の適用は,税法事件に限られるものではない。)。そして,学説は,この判例法理を一般に以下のとおり整理し,多数説はそれを支持している。その法理は,平成5年に行政手続法が制定された後も基本的には妥当すると解されている。

不利益処分に理由付記を要するのは,処分庁の判断の慎重,合理性を担保して,その恣意を抑制するとともに,処分の理由を相手方に知らせることにより,相手方の不服申立てに便宜を与えることにある。その理由の記載を欠く場合には,実体法上その処分の適法性が肯定されると否とにかかわらず,当該処分自体が違法となり,原則としてその取消事由となる(仮に,取り消した後に,再度,適正手続を経た上で,同様の処分がなされると見込まれる場合であっても同様である。)

理由付記の程度は,処分の性質,理由付記を命じた法律の趣旨・目的に照らして決せられる。

処分理由は,その記載自体から明らかでなければならず,単なる根拠法規の摘記は,理由記載に当たらない。

理由付記は,相手方に処分の理由を示すことにとどまらず,処分の公正さを担保するものであるから,相手方がその理由を推知できるか否かにかかわらず,第三者においてもその記載自体からその処分理由が明らかとなるものでなければならない。

行政手続法と不利益処分理由の提示

平成5年11月に制定された行政手続法は,「行政運営における公正の確保と透明性の向上を図り,もって国民の権利利益の保護に資することを目的」として制定されたものであり,同法は,不利益処分については,行政庁は,不利益処分の性質に照らしてできる限り具体的な処分基準を定め,これを公にするように努めなければならないとしている(同法12条)

そして,行政庁は,不利益処分をなす場合には,その名宛人に対し,理由を示さないで処分をすべき差し迫った必要がある場合を除き,その不利益処分と同時に当該理由を示さなければならないと定める(同法14条1項)

ところで,行政庁のなす不利益処分に関して裁量権が認められている場合に,行政庁が同法12条に則って処分基準を定めそれを公表したときは,行政庁は,同基準に羈束されてその裁量権を行使することを対外的に表明したものということができる。

したがって,行政庁が不利益処分をなすには,原則としてその基準に従ってなすとともに,その処分理由の提示に当たっては,同基準の適用関係を含めて具体的に示さなければならないものというべきである。ただし,当該基準は行政庁自らが定めるものであることからして,不利益処分をなすに当たり同基準によることが相当でない場合にまで,行政庁が同基準に羈束されると解することは相当ではない。しかし,その場合には,同基準によることができない合理的理由が必要であり,またその理由についても,処分理由の提示において具体的に示されなければならないものというべきである。

そして,行政庁が不利益処分の処分基準を定めてそれを公表した後に,その基準によることなく不利益処分をなし,あるいは,理由の提示においてその基準との関係についての説明を欠くときは,前記1に述べたところの法理に基づいて違法との評価を受けるものというべきである。

建築士法と処分基準

多数意見2(4)に記載するとおり,建築士法10条1項は,国土交通大臣又は都道府県知事が建築士法等に違反した建築士に対して戒告,業務停止又は免許の取消しの懲戒処分をすることができる旨定め,本件免許取消処分がなされた当時,同懲戒処分の基準として,多数意見にて記載したとおり「建築士の処分等について」と題する都道府県知事宛ての建設省住宅局長通知が発出され,それが公表されていた。

上記通知の法的性質は,通達であって,第三者の権利義務を直接規律するものではないが,建築士法に基づく懲戒処分の処分基準(本件処分基準)を詳細に定めるとともに,それが公表されていたのであるから,行政手続法12条に定める処分基準として公表されていたものというべきものであり,建築士法に基づく懲戒処分をなすに当たっては,本件処分基準に依拠するとともに,その処分理由において同基準の適用関係を摘示することが求められていたといえる。

本件免許取消処分と本件処分基準及び処分理由の提示

本件免許取消処分においてなされた処分理由の提示(以下「本件処分理由の提示」という。)は,多数意見2(2)に記載のとおりである。その理由の提示において,本件処分基準との関係について何ら言及することがないばかりか,以下に記載するとおり,上告人X1の処分対象行為の特定すら十分になされず,また,その提示された内容は具体性を欠き極めて不十分なものである。多数意見は以下に述べる違法事由のうち,(3)の点を捉えて本件免許取消処分の違法性を認めているが,私は,下の(1)及び(2)それぞれ単独でも,行政手続法14条が定める「理由の提示」の要件を充足しているとは到底認められず,理由の提示を欠く処分として違法であり,取消しを免れないものであると考える。

(1) 本件処分理由の提示において,上告人X1の処分対象行為の特定が十分になされていない。

本件処分通知書の内容

本件免許取消処分の通知書(以下「本件処分通知書」という。)には,多数意見2(2)に記載するとおり,上告人X1は番地を特定した土地を敷地とする7件の建築物の設計者として,建築基準法令に定める構造基準に適合しない設計(以下「構造基準不適合設計」という。)を行い,それにより耐震性等の不足する構造上危険な建築物を現出させ,また,番地を特定した土地を敷地とする5件の建築物の設計者として,構造計算書に偽装が見られる不適切な設計(以下「構造計算偽装」という。)を行ったと記載されている。しかし,その記載からは,構造基準不適合設計がされた7件の建築物の種類,規模,構造等は全く不明であり(本件記録上は,地上9~15階,20~84戸のマンションであったことがうかがわれる。),また,その設計時期,上告人X1の行った構造基準不適合設計のいかなる点が具体的に問題となるのか,「耐震性等の不足する構造上危険な建築物」とあるが,どの程度耐震性に影響が存するのか(取壊しまで必要なのか,相当規模の耐震補強工事を必要とするのか,軽微な補強工事で足りるのか等)について何ら記載されていない(原判決の認定によれば,上記7件の建築物は,倒壊,破損に類するような危険性を有すると断定することはできないレベルのものである。)

また,構造計算偽装に係る5件の建築物についても,その種類,規模,構造は全く不明であり(本件記録上は,地上9~15階,21~88戸のマンションであったことがうかがわれる。),その設計時期やその偽装と上告人X1の関わり合いの内容(上告人X1は,構造計算は下請業者に外注していたもので,その偽装を見抜くことは困難であったと主張している。),その偽装により,実際に建築された各建物にどのような問題が生じたのか(取壊しが必要なのか,補強工事が必要なのか,その場合,どの程度の工事が必要なのか等)について何ら記載されていない(原判決も,上記5件の建築物の耐震強度については認定していない。)

違反設計建築物自体の特定の不十分及び設計時期の不記載について

上告人X1は,本件免許取消処分の対象である12件の建築物の設計に関わっているから,その建築物の内容や設計時期は当然に認識しているところではある。しかし,前記1に記載したとおり,理由付記は相手方に処分の理由を示すにとどまらず公正さを担保するものであって,第三者においても,その記載自体からその処分理由が明らかとなるものでなければならないことからすれば,本件処分通知書における建築物の特定は極めて不十分であり,また,設計が行われた時期が特定されていない点は,理由付記の基礎となる事実の特定を欠くものといわざるを得ない。

なお,設計時期の点は,本件処分基準において,法違反の状態が長期にわたる場合や常習的に行っている場合には,違反点数の加算事由とされ,他方,「同一の処分事由に該当する複数の行為については,時間的,場所的接着性や行為態様の類似性等から,全体として一の行為と見うる場合は,単一の行為と見なしてランキングすることができる」とされていることからして,違反行為を評価する上でも重要な要素をなすものである。

違反内容の記載について

アにおいて指摘したとおり,本件処分通知書に記載されている違反行為の内容は極めて抽象的であって,その違反の具体的内容は明らかではない。仮に,上告人X1において,本件免許取消処分の基礎とされた違反行為の内容に争いがない場合であっても,前記1に記載したとおり,不利益処分の理由提示においては,違反行為の具体的な内容が,第三者においても認識できるものでなければならないところ,本件処分通知書の記載内容からは,専門家たる建築士においても,上告人X1の行った違反行為の具体的内容を推知することは到底できないものである。

小括

以上述べたところからして,本件処分理由の提示は,前記1に記載したところの要件を満たしておらず,違法との評価を受けざるを得ないものというべきである。

(2) 本件処分理由の提示の内容は,本件処分基準との関連性の点を除いても,本件免許取消処分の重大性と対比して,理由の提示としては極めて不十分であるといわざるを得ない。

本件免許取消処分は,上告人X1の建築士免許を取り消すという同上告人自身にとって極めて重大な処分であり,また,それに伴い同上告人が管理建築士を務める上告会社の建築士事務所の登録が取り消されることにつながるという重大な処分であることからすれば,本件処分基準が定められていない場合であっても,その処分理由として違反行為の内容を具体的に摘示し,その違反行為が建築士免許取消処分に該当するだけの重大なものであることを,上告人X1をして十分に認識させるものでなければならないというべき筋合いである。殊に,同上告人は,本件免許取消処分に係る聴聞手続の段階から,構造基準不適合設計及び構造計算偽装の本件処分基準との適用関係を問題とするなど違反行為の性質や程度を争っていたことからすれば,なおさらである。

また,本件免許取消処分の重大性に鑑みて,その処分理由は,その理由書を一読した第三者においても,その処分が適正なものであることを容易に理解できるものでなければならない。

ところが,本件処分通知書に記載された処分理由は,上記のとおり,上告人X1の設計に係る7件の建築物について構造基準不適合設計を行い,それにより耐震性等の不足する構造上危険な建築物を現出させ,また5件の建築物について構造計算偽装を行ったという処分の原因となる事実と,建築士法10条1項2号及び3号という処分の根拠法条が示されているのみであり,上記に記載したような,本件免許取消処分の重大性からして当然に求められる処分理由の詳細な提示を欠くものである。

かかる不適切な処分理由の提示は,処分理由に求められる前記1の要件を満たすものとはいえず,違法との評価を受けざるを得ないものといえる。

なお,那須裁判官はその反対意見において,(上告人X1が行った)各設計行為につき建築の専門家である建築士の職責(建築士法2条の2)の本質的部分に関わる重大な違法行為及び不適切な行為があったことは明らかである。本件免許取消処分通知書には,これらの違法行為及び不適切な行為の具体的事実が示され,また処分の根拠となった法令の条項も示されているのであり,その違法・不適切な行為の重大性とこれによって生じた深刻な結果とを直視することにより,本件懲戒規定の定める3種類の処分の中から最も重い免許取消処分が選択されたことがやむを得ないものであることは,専門家ならずとも一般人の判断力をもってすれば,容易に理解できるはずである。」として,本件処分通知書の処分理由の記載は取消しの効果に直結する瑕疵に当たらないとされる。

しかし,本件処分通知書に記載された処分理由は,本件免許取消処分に係る事実関係を争っている上告人X1の主張に何ら応答するものではなく,また,同業者たる建築士においても,同上告人が具体的にいかなる非違行為を行ったのかが一読して明らかなものとは到底いえないのであって,同意見にはその前提において賛成し難い。

(3) 本件免許取消処分の理由と本件処分基準の適用関係の摘示について

本件免許取消処分においては,前記3に記載したとおり,本件処分基準が適用されるのであるから,本件処分通知書には,処分理由として,上告人X1の建築士法違反等の行為と本件処分基準の適用関係について具体的な摘示が必要とされるにもかかわらず,本件処分通知書にはその記載を全く欠いているのである。

この点に関して原判決は,構造基準不適合設計に係る7件の建築物と構造計算偽装に係る5件の建築物につき,それぞれ本件処分基準を当てはめると免許取消処分の要件を満たしていると判示するが,上記のとおり本件では上告人X1の行った違反行為の具体的内容が特定されていないのにかかわらず,その特定されていない行為を対象として,判決理由中で本件処分基準の適用関係につき論じることは相当とはいえない。

ところで,那須裁判官はその反対意見において,行政手続法12条1項は,行政庁に不利益処分に関する処分基準を設定し公表する努力義務を課しているにすぎないから,「行政庁が,適用関係を理由中に表示することまで必要ないと判断して,これを前提とした処分基準を設定することもその裁量権の範囲内に含まれると解する余地も十分ある。むしろ,そう解することが前記努力義務規定ともよく整合し,現実に対応した柔軟な処理を可能にすることになると考える。」と主張される。行政庁が,不利益処分の処分基準を定めた上でそれを一切公表せず(そのこと自体,行政手続法12条1項の趣旨に反する。),全くの内部的な取扱基準として運用する場合には,那須裁判官の上記の見解も成り立ち得るといえる。しかし,行政庁が不利益処分の処分基準を定めてそれを公表することは,前記2に述べたとおり,当該行政庁は,不利益処分をなすに当たっては,特段の事情がない限りその処分基準に羈束されて手続を行うことを宣明することにほかならないのである。そして,一旦,不利益処分は自らが定めた処分基準に従って行うことを宣明しながら,その基準に拠ることなく現実に対応した柔軟な処理をすることもできると解することは,行政手続の透明性に背馳し,行政手続法の立法趣旨に相反するものであって,上記の見解には到底賛同できない。

(4) 小括

以上検討したとおり,本件処分理由の提示は,多数意見にて指摘するとおり,上告人X1の行った違反行為と本件処分基準の適用関係についての記載を欠く点において,行政手続法14条1項本文の要求する理由の提示として不十分であるのみならず,前記(1)(2)に記載した諸点からしても,同条の要求する理由の提示として不十分であって,取消しを免れないものというべきである。

なお,那須裁判官は,多数意見のように,当審で原判決を破棄し自判により上告人らの請求を認容して本件免許取消処分を取り消しても,処分行政庁が,前回と同様な懲戒手続により,再度同様の免許取消処分を行うこともあり得るところ,これに要する時間,労力及び費用等の訴訟経済の問題を考慮すれば,逆の評価をせざるを得ない面もある,と主張される。

しかし,そのような諸点をも考慮の対象とした上で,前記1に述べたように行政処分において手続の公正さは貫かれるべきであるとする判例法理が,永年の多数の下級審裁判例や前記1に記載した最高裁判例の積重ねによって形成されてきたのであり,行政処分の正当性は,処分手続の適正さに担保されることによって初めて是認されるのであって,適正手続の遂行の確立の前には,訴訟経済は譲歩を求められてしかるべきである。

聴聞手続との関係について

那須裁判官は,その反対意見において,上告人X1は,本件免許取消処分に先立って行われた聴聞の審理が始まるまでには,自らがどのような基準に基づき,どのような不利益処分を受けるかは予測できる状態に達しているはずであり,聴聞の審理の中で更に詳しい情報を入手できるとされ,このような場合にもなお,不利益処分の理由中に一律に処分基準の適用関係を明示しなければ処分自体が違法になるとの原則を固持しなければならないものか,疑問が残る,とされる。

しかし,不利益処分に理由付記を必要とする判例法理は,前記1に記したとおり,相手方がその理由を推知できるか否かにかかわらないとするものであって,聴聞手続において上告人X1が自らの不利益処分の内容を予測できたか否かは,理由付記を必要としない理由とはなり得ないのである。

それに加えて本件の聴聞手続では,本件記録による限り,国土交通大臣は上告人X1に対し,本件処分通知書記載の理由と同旨の事項を告知したことが認められるにすぎず,同上告人の主張によれば,同上告人が本件処分基準の適用関係について質問したのに対しては,何ら具体的な応答がなされなかったというのであって,那須裁判官の反対意見の前提とされるところが本件の聴聞手続において満たされていないのであるから,本件において聴聞手続が行われたことをもって,本件処分通知書の理由記載の不備の瑕疵が治癒され得るとは到底解し得ないのである。

 

裁判官那須弘平の反対意見は,次のとおりである。

本件処分理由の適法性

本件免許取消処分通知書においては,上告人X1が設計者として,7件の建築物につき建築基準法令に定める構造基準に適合しない設計を行って耐震性等の不足する構造上危険な建築物を現出させた上,更に5件の建築物につき構造計算書に偽装が見られる不適切な設計を行った,という二つの類型の行為が挙げられている。指摘されるような構造基準に達しない設計や構造計算書における偽装が存在したことを前提とすれば,上記各設計行為につき建築の専門家である建築士の職責(建築士法2条の2)の本質的部分に関わる重大な違法行為及び不適切な行為があったことは明らかである。本件免許取消処分通知書には,これらの違法行為及び不適切な行為の具体的事実が示され,また処分の根拠となった法令の条項も示されているのであり,その違法・不適切な行為の重大性とこれによって生じた深刻な結果とを直視することにより,本件懲戒規定の定める3種類の処分の中から最も重い免許取消処分が選択されたことがやむを得ないものであることは,専門家ならずとも一般人の判断力をもってすれば,容易に理解できるはずである。

本件では,処分基準が設定・公表されていることから,その「適用関係」表示の要否をめぐり後述のとおりの難しい問題が生じている。しかし,本件と同様な事案において,仮に処分基準がない場合を想定してみると,処分通知の事実記載自体から免許取消しという結論に至ったことに格別の違和感を持たず,これを了解する者が大半を占めるのではないか。結論として,裁量権の逸脱・濫用等の誤りないしこれに関する手続違背の主張を容れなかった原審判断を支持したい。

処分基準の「適用関係」記載の要否

本件では,行政手続法12条1項に基づき,本件処分基準(「建築士の処分等について」と題する建設省住宅局長通知(平成11年12月28日建設省住指発第784号))が設定・公表されている。そこで,本件処分基準の存在が,上記1の判断に影響を与え,あるいは結論を左右することになるかどうかが問題となる。結論から先に述べると,一般論としてはともかく,本件の事実関係を前提とする限り,上記1で述べたところを変更する必要はないと考える。すなわち,

(1) 本件処分基準は,「建築士の懲戒処分の強化」を図ることを目的とし,「迅速かつ厳正」に処分を行うことを基本方針としている(通知本文1項)。同2項(建築士の懲戒処分等の基準)には「建築士の処分等の内容の決定は,別表第1に従い行うこと。」と明記されているが,理由の提示に関しては,3項(処分等に伴う措置)及び4項(報告等)等にも全く記載されていない。そして,本件処分基準の内容を見ても,後記(2)のとおり,処分ランクの算定をどうするかを中心とする技術的なものにとどまり,その適用関係を名宛人や他の外部関係者に知らしめることに特別な意義を見いだせる内容のものとなっていないように読める。その結果,本件処分基準を定めた上記建設省住宅局長通知が,果たして「適用関係」まで理由中に表示することを求める趣旨で作られたものなのかどうかについては疑問が湧いてくるのである。

もっとも,処分基準については,一旦設定・公表された後は,通達等による場合でも,外部的効果ないし自己拘束力を持つことになるとして,処分行政庁に一律に同基準を反映した理由の提示義務を認める見解も有力に主張されている。しかし,もともと,不利益処分に関する処分基準については,行政庁はこれを設定・公表する努力義務を負うにとどまるものとされている(行政手続法12条1項)。そうすると,行政庁が,適用関係を理由中に表示することまで必要ないと判断して,これを前提とした処分基準を設定することもその裁量権の範囲内に含まれると解する余地も十分ある。むしろ,そう解することが前記努力義務規定ともよく整合し,現実に対応した柔軟な処理を可能にすることになると考える。

(2) 本件処分基準に関し,多数意見が明示すべしと主張する「適用関係」とは何か。少なくとも,以下の及びの判断作業を含むものと理解できる。

本件処分基準別表第1の(2)本文を適用すべき場合にとどまるものか,それともただし書を適用することも可能な場合(対象となる行為が故意又は過失によるもので,建築物の倒壊等,結果が重大であるときに限られる。)に当たるのか,について判別する作業。

上記判別の結果に対応して,本文を適用すべき場合には,表2(ランク表)記載の処分ランクを基本として,表3(情状等による加減表)記載の情状に応じて加減を行ってランクを決定した上で,表4(処分区分表)に従い文書注意,戒告,業務停止及び免許取消しの中から処分内容を選択・決定する作業。ただし書を適用すべき場合には,直接(上記処分ランクの決定作業を省いて),業務停止3月若しくは6月以上又は免許取消しの中から相当な処分を決定する作業。

上記の意味での「適用関係」を処分理由中に示すためには,本文を適用するか,それともただし書を適用することもできるのかの判別に始まり,本文を適用する場合の各種処分ランクの算定方法に至るまで,相当複雑な法的解釈・適用に類する作業をしなければならない。その作業の一端は,第1審判決及び原判決からうかがうことができるが,これらの判示部分は,表2記載の処分ランクの算定及び表4による処分内容の決定を中心とするものに限られていて,表3の情状による加減に関する作業にまで及んでいない。しかし,仮に適用関係を表示するとなると,表3の情状による加減についても表示する必要が生じてくる。そのためには,処分ランクの数値の算定だけではなく,情状による加減の根拠となる具体的事実についても記載せざるを得ない。したがって,一口に「適用関係」を示すといっても,その作業は相当複雑な内容のものとなり,それだけ時間と労力を要するものになる。結果として,適用関係の表示に誤りや欠落が発見されることも生じ,これに対して処分の効果等を争って訴訟に及ぶ者も出てくる可能性がある。以上のことを勘案すると,本件の事実関係の下で「適用関係」を理由中に表示する必要性と合理性の存否については,なお疑問があり,多数意見にたやすく賛同することはできない。

(3) 原判決は,適用関係の表示の要否につき,行政手続法12条1項が努力義務を定めたものにすぎないとした上で,「この条項が存在するからといって,直ちに,行政処分に際し,その理由として,処分基準の内容及び適用関係まで提示しなければならないということにはならない。」と判示している。また,訴訟の中での本文とただし書との間での「理由の差替え」の当否の点に関連してではあるが,「本件処分基準は,国土交通大臣が処分内容を決定するための内部基準にすぎず,いわば処分内容を決定するための道具ともいうべきものである」と指摘し,国土交通大臣がただし書によって本件免許取消処分をした場合であっても,審理の範囲がただし書の処分要件を充足する事実の存否に限られると解する理由はない旨判示している。これらの判示部分は,問題とされている処分基準の設定・公表が努力義務とされていることを重視し,通達の作用の限界をも勘案して,処分基準の適用関係の表示の要否及びその前提としての本文とただし書の関係について柔軟に考える点で,上記(1)及び(2)に述べたところと発想を共通にするものを含み,評価に値すると考える。

(4) 以上,検討したところを総合すれば,本件処分理由の中で本件処分基準の適用関係を明示していなければ,常に行政手続法14条1項違反等の手続違背が生じるとまではいえないと考える。

行政手続法の下での処分基準の位置付け

上記2に述べた見解を採ることに関連して,行政手続法の下で不利益処分のための処分基準をどう位置付けるべきか,やや一般論にわたるが,私の考えているところを要約して記しておきたい。

(1) 不利益処分に関する処分基準の機能としては,行政庁の判断の慎重と合理性を担保してその恣意を抑制すること,及び処分の理由を名宛人に知らせて不服の申立てに便宜を与える点が強調されることが多い。しかし,処分基準は,これと並んで(あるいは,これに先行してというべきか),処分の基準を設けてこれを行政機関内部に周知徹底させることで,不利益処分を厳正かつ迅速に遂行することに寄与し,さらに,不利益処分に先立って行われる聴聞の審理に際し,審理の進行及び処分の内容を予測するための有力な指針ともなる。 このように,処分基準は,不利益処分をめぐる手続の各段階で,多様な形で機能するものであるから,これが設定・公表されているという一事から,直ちに理由提示においても基準に対応して細かい事実関係や適用関係まで明示することを必要とすると解したり,あるいはこれを欠くときは一律に取消事由となるとの解釈を導き出すことは性急かつ硬直にすぎて賛成できない。処分基準といっても不利益処分の対象いかんで多様なものが想定でき,その中には適用関係まで明示しなければ理由の体を成さないものから,全くその必要のないものまで存在し得る。行政手続法12条1項及び14条1項の下では,理由提示の程度につき,多様な内容のものが併存することを認めるべきであろう。

(2) 不利益処分に先行して行われる聴聞手続の審理では,名宛人となる者が,自らの非違の有無・程度,不利益処分のあるべき内容等について相応の情報を取得し,反論の機会を与えられる。この手続によって,処分行政庁による判断の慎重・合理性を担保して恣意の抑制を図ることや,名宛人による不服の申立てに便宜を供与することもある程度期待できる。この意味で,不利益処分の理由提示と聴聞とは,その機能面において一部重なり合い,相互に補完する関係にあるといえる。特に,一級建築士等の国家資格に基づく専門職に対する聴聞の場合,名宛人とされる者は,自らの資格の得喪に直接関わる不利益処分に関する事項について,質量ともに通常人とは異なる水準の詳細かつ高度な情報を入手できる環境にある。専門職として遵守すべき職業倫理の問題に関しては,専門職の資格を保持していくために必要不可欠のものであるから,処分基準の内容も含め熟知していると考えてよいであろう。したがって,不利益処分の名宛人となるべき一級建築士は,遅くとも聴聞の審理が始まるまでには自らがどのような基準に基づきどのような不利益処分を受けるかは予測できる状態に達しているはずであり,聴聞の審理の中で,更に詳しい情報を入手することもできる。このような場合にもなお,不利益処分の理由中に,一律に処分基準の適用関係を明示しなければ処分自体が違法となるとの原則を固持しなくてはならないものか,疑問が残る。むしろ,具体的事案に応じてその要否を決めることで足りると解すべきであろう。

これに対し,聴聞を経た後は,より詳しく理由を示すこともできるはずであるとの指摘もある。しかし,不利益処分の理由の中には,明示しないことが名宛人とされる者の利益につながるものや,質的又は量的な側面から,文章化することに適しないものも含まれている。手続的正義も,常に書面の中に痕跡を残さなくてはこれを実現できない,ということではなかろう。

(3) 主として税法を中心にして形成されてきた行政処分の理由付記に関する一連の判例が存在することは田原裁判官の補足意見が指摘するとおりである。 しかし,これらの税法関係の判例は,所得税法45条2項(当時)を始めとするいくつかの税法上の規定で,更正処分等の通知書に理由を付記すべき旨を定めるものがあることを前提とし,その解釈として形成されてきたものである。 当然のことながら,これらの理由付記規定にはそれぞれの固有の立法趣旨・目的が存在していたことから,前記各判例もこれらの法令の解釈として上記のような結論を導き出したものと解される。税法に関する案件では,理由に金額等の数値を詳細かつ正確に表示することが必要であり,これを欠いては,不利益処分の理由としての体を成さないものが多いという特殊固有な事情もある。これに対し,建築士法等の懲戒に関する不利益処分では,税法と同様な趣旨での金額等の数値に関する厳格な理由付記を求める規定は存在せず,これを必要とする現実的な事情があるとも思えない。ただ,後に制定された行政手続法14条1項によって,理由提示の義務が課せられているというにとどまる。そして,同規定は,同法3条等が特に定める例外的場合を除き,行政庁による不利益処分一般に適用されるべきものであるから,理由提示の内容・程度についても,様々な態様の事実関係にも適用可能な柔軟な内容のものとして解釈され,運用されなくてはならない。この観点からすると,理由付記法理と称されるものの中でも,「処分理由は,その記載自体から明らかでなければならない。」及び「理由付記は,相手方がその理由を推知できるか否かにかかわらず,第三者においてもその記載自体から処分理由が明らかとなるものでなければならない。」とするもの(田原裁判官の補足意見1及び参照)については,行政手続法12条1項及び14条1項の下で,税法分野以外の不利益処分に関してそのまま妥当するものと解することに慎重でなくてはならないと考える。

訴訟経済の視点

本件では,多数意見のように,当審で原判決を破棄し自判により上告人らの請求を認容して本件免許取消処分を取り消すことも,事例判断の一つとして論理的に採り得ない話ではない。しかし,この場合,処分行政庁が前回と同様な懲戒手続により,理由中で処分基準の適用関係を明示した上で,再度同様な内容の免許取消処分を行い,更に訴訟で争われる事態が生じることもあり得る。このような事態も手続的正義の貫徹という視点からは積極的に評価できる面もあろうが,これに要する時間,労力及び費用等の訴訟経済の問題を考慮すれば逆の評価をせざるを得ない面もある。以上のことをも考慮すれば,本件では,原審の判断を維持するのを相当とすべきであり,これと異なる多数意見には賛成できない。

裁判官岡部喜代子は,裁判官那須弘平の反対意見に同調する。

(裁判長裁判官 岡部喜代子反対意見同調

 裁判官 那須弘平反対意見

裁判官 田原睦夫補足意見

裁判官 大谷剛彦

裁判官 寺田逸郎)

 

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最判昭39.10.13権利濫用

昭和37()885 家屋明渡等請求 昭和391013日 第三小法廷 判決 棄却民集 第1881578

 

福岡高等裁判所 昭和37430

 

判示事項

内縁の夫死亡後その所有家屋に居住する寡婦に対して亡夫の相続人のした家屋明渡請求が権利の濫用にあたるとされた事例。

裁判要旨

内縁の夫死亡後その所有家屋に居住する寡婦に対して亡夫の相続人が家屋明渡請求をした場合において、右相続人が亡夫の養子であり、家庭内の不和のため離縁することに決定していたが戸籍上の手続をしないうちに亡夫が死亡したものであり、また、右相続人が当該家屋を使用しなければならない差し迫つた必要が存しないのに、寡婦の側では、子女がまだ、独立して生計を営むにいたらず、右家屋を明け渡すときは家計上相当重大な打撃を受けるおそれがある等原判決認定の事情(原判決理由参照)があるときは、右請求は、権利の濫用にあたり許されないものと解すべきである。

参照法条

民法13

         主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人の負担とする。

 

         理    由

 上告代理人山中伊佐男の上告理由一について。

 論旨は、原判決が本訴請求を権利の濫用として許されないと判断したのは民訴一八六条に違反するものであるという。しかし、記録により明らかである被上告人の主張の経過に照らせば、被上告人が所論権利濫用の主張をもなすものと解される旨の原審の判断は、首肯し得ないではない。

 しかして、上告人および被上告人間の身分関係、本件建物をめぐる右両者間の紛争のいきさつ、右両者の本件建物の各使用状況およびこれに対する各必要度等の事情につき、原審がその挙示の証拠により確定した事実関係に照らせば、被上告人に対する上告人の本件建物明渡請求が権利の濫用として許されない旨の原審の判断は、正当として肯認するに足りる。

 次に、論旨は、上告人の提出した居住権濫用の主張につき原審が判断遺脱の違法を犯したものであるというが、原審は、本件建物につき被上告人の居住権の存在を否定しているのであるから、右主張につき判断しなかつたのは、当然である。

 なお、論旨は、原判決に憲法違反がある旨云為するが、そのいうところは、前記法令違反の主張を出るものではなく、右法令違反の主張が理由のないことは、前記説示のとおりである。

 従つて、論旨はすべて採るを得ない。

 

 同二について。

 原判決中の、上告人が本件建物を独占して使用することが相当と認められるまで双方共に本件建物に同居すべきである旨の判示は、原審が、上告人の本件建物明渡請求が権利の濫用として許されない旨を判断するにあたり、傍論として記載したにすぎないものであつて、論旨のように、上告人に対し被上告人と同居する法律上の義務を負担させ、または内縁の寡婦と死亡した内縁の夫の子との間に法律上の同居義務を創設するわけのものではない。論旨は、原判決を正解しないで、その傍論的記載を非難するに帰するものであつて、採用し得ない。

 

 同三について。

 原審が、本訴請求を権利の濫用として許されない旨判断したからといつて、被上告人が本件建物に居住しうる権利を容認したものとはいえない。従つて、被上告人主張のような居住権が認められない旨の原審の判断は、上告人の本訴請求が権利の濫用として許されない旨の判断となんらそごするものではないから、論旨は採用し得ない。

 よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

     最高裁判所第三小法廷

         裁判長裁判官    柏   原   語   六

            裁判官    石   坂   修   一

            裁判官    五 鬼 上   堅   磐

            裁判官    横   田   正   俊

            裁判官    田   中   二   郎

 

最判昭42.4.20代理権の濫用

昭和39()1025 売掛代金請求 昭和42420日 第一小法廷 判決 棄却 民集 第213697

 

東京高等裁判所 昭和36()2246 昭和39528

 

判示事項

代理人の権限濫用の行為と民法第九三条

裁判要旨

代理人が自己または第三者の利益をはかるため権限内の行為をしたときは、相手方が代理入の意図を知りまたは知りうべきであつた場合にかぎり、民法第九三条但書の規定を類推適用して、本人はその行為についての責に任じないと解するのが相当である。

参照法条

民法93条,民法99

 

          主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人の負担とする。

 

         理    由

 上告代理人福田力之助、同佐藤正三の上告理由第一点について。

 上告会社の支配人Dが、被上告会社の製菓原料店主任Eらの権限濫用の事実を知りながら、本件売買取引をなしたものである旨の原審の認定は、原判決挙示の証拠関係から是認できないものではない。原判決に所論の違法はなく、論旨は、原審の裁量に委ねられた証拠の取捨判断および事実の認定を非難するものであつて、採用することができない。

 

 同第二点について。

 代理人が自己または第三者の利益をはかるため権限内の行為をしたときは、相手方が代理人の右意図を知りまたは知ることをうべかりし場合に限り、民法九三条但書の規定を類推して、本人はその行為につき責に任じないと解するを相当とするから(株式会社の代表取締役の行為につき同趣旨の最高裁判所昭和三五年(オ)第一三八八号、同三八年九月五日第一小法廷判決、民集一七巻八号九〇九頁参照)、原判決が確定した前記事実関係のもとにおいては、被上告会社に本件売買取引による代金支払の義務がないとした原判示は、正当として是認すべきである。したがつて、原判決に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、独自の法律的見解を前提とするか、もしくは、原審認定の事実と相容れない事実関係を主張して、原判示を非難するものであつて、採用することができない。

 

 同第三点について。

 民法七一五条にいわゆる「事業ノ執行ニ付キ」とは、被用者の職務の執行行為そのものには属しないが、その行為の外形から観察して、あたかも被用者の職務の範囲内の行為に属するものと見られる場合をも包含するものと解すべきであることは、当裁判所の判例とするところである(最高裁判所昭和三五年(オ)第九〇七号、同三七年一一月八日第一小法廷判決、民集一六巻一一号二二五五頁、同昭和三九年(オ)第一一一三号、同四〇年一一月三〇日第三小法廷判決、民集一九巻八号二〇四九頁、なお大審院大正一五年一〇月一三日民刑連合部判決、民集五巻七八五頁参照)。したがつて、被用者がその権限を濫用して自己または他人の利益をはかつたような場合においても、その被用者の行為は業務の執行につきなされたものと認められ、使用者はこれにより第三者の蒙つた損害につき賠償の責を免れることをえないわけであるが、しかし、その行為の相手方たる第三者が当該行為が被用者の権限濫用に出るものであることを知つていた場合には、使用者は右の責任を負わないものと解しなければならない。けだし、いわゆる「事業ノ執行ニ付キ」という意味を上述のように解する趣旨は、取引行為に関するかぎり、行為の外形に対する第三者の信頼を保護しようとするところに存するのであつて、たとえ被用者の行為が、その外形から観察して、その者の職務の範囲内に属するものと見られるからといつて、それが被用者の権限濫用行為であることを知つていた第三者に対してまでも使用者の責任を認めることは、右の趣旨を逸脱するものというほかないからである。したがつて、このような場合には、当該被用者の行為は事業の執行につきなされた行為には当たらないものと解すべきである。

 本件につき原審の確定した事実によれば、前述のように、被上告会社製菓原料店主任Eは、同人らの利益をはかる目的をもつて、その主任としての権限を濫用し、被上告会社製菓原料店名義を用いて上告会社と取引をしたものであるが、上告会社支配人Dは、Eが右のようにその職務の執行としてなすものでないことを知りながら、あえてこれに応じて本件売買契約を締結したというのである。そうすれば、被上告会社が右契約により上告会社の蒙つた損害につき民法七一五条により使用者としての責任を負わないものと解すべきことは、前段の説示に照らして明らかである。すなわち、本件売買取引による損害は、Eが被上告会社の事業の執行につき加えた損害に当たらないと解すべきであり、これと同趣旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法は認められない。なお、所論のように右DがEの背任行為に加担したという事実は原審の認定しないところであるから、所論引用の判例は本件と事案を異にして適切でない。論旨は、独自の法律的見解に立脚するか、もしくは、原審の認定にそわない事実を前提として原判決を非難するに帰し、採ることができない。

 よつて民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官大隅健一郎の意見があるほか、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

 

 裁判官大隅健一郎の意見は、つぎのとおりである。

 上告理由第二点に関する多数意見の結論には異論はないが、その理由については賛成することができない。

 被上告会社の製菓原料店主任Eは商法四三条にいわゆる番頭、手代に当たり、同条により、右製菓原料店における原料の仕入に関して一切の裁判外の行為をなす権限を有するものと認められる。そして、ある行為がその権限の範囲内に属するかどうかは、客観的にその行為の性質によつて定まるのであつて、行為者Eの内心の意図のごとき具体的事情によつて左右されるものではない。このことは、商法が番頭、手代の代理権の範囲を法定するのは、これと取引する第三者が、取引に当り、一々具体的事情を探求して、その行為が相手方の代理権の範囲内に属するかどうかを調査する必要をなくする趣旨に出ていることに徴して、窺うにかたくない。そうであるとすれば、本件売買契約は、前記Eが何人の利益をはかる目的をもつて締結したかを問わず、その権限内の行為であつて、これにより被上告会社が責任を負うのは当然といわなければならない。この場合に、相手方たる上告会社の支配人Dが右契約がEの権限濫用行為であることを知つていても、それがEの権限内の行為であることには変りはない。しかし、このような場合に、悪意の相手方がそのことを主張して契約上の権利を行使することは、法の保護の目的を逸脱した権利濫用ないし信義則違反の行為として許されないものと解すべきである。その意味において、多数意見の結論は支持さるべきものと考える。

 多数意見は、この場合に心裡留保に関する民法九三条但書の規定を類推適用しているが、いうまでもなく、心裡留保は表示上の効果意思と内心的効果意思とが一致しない場合において認められる。しかるに、代理行為が成立するために必要な代理意思としては、直接本人について行為の効果を生じさせようとする意思が存在すれば足り、本人の利益のためにする意思の存することは必要でない。したがつて、代理人が自己または第三者の利益をはかることを心裡に留保したとしても、その代理行為が心裡留保になるとすることはできない。おそらく多数意見も、代理人の権限濫用行為が心裡留保になると解するのではなくして、相手方が代理人の権限濫用の意図を「知りまたは知ることをうべかりしときは、その代理行為は無効である、」という一般理論を民法九三条但書に仮託しようとするにとどまるのであろう。すでにして一般理論にその論拠を求めるのであるならば、前述のように、権利濫用の理論または信義則にこれを求めるのが適当ではないかと考える。しかも、この両者は必ずしもその結論において全く同一に帰するものでないことを注意しなければならない。すなわち、多数意見によれば、相手方が代理人の権限濫用の意図を知らなかつたが、これを知ることをうべかりし場合には、本人についてその効力を生じないことは明らかであるが、私のような見解によれば、むしろこの場合にも本人についてその効力を生ずるものと解せられる。そして、代理人の権限濫用が問題となるのは、実際上多くは法人の代表者や商業使用人についてであることを考えると、後の見解の方がいつそう取引の安全に資することとなつて適当ではないかと思う。

     最高裁判所第一小法廷

         裁判長裁判官    大   隅   健   郎意見

            裁判官    入   江   俊   郎

            裁判官    長   部   謹   吾

            裁判官    松   田   二   郎

            裁判官    岩   田       誠

最判昭41.4.22表見代理の証明責任

昭和39()264 根抵当権設定登記抹消請求 昭和41422日 第二小法廷 判決 棄却 民集 第204752

 

東京高等裁判所 昭和34()452 昭和381026

 

判示事項

 代理行為の相手方の悪意又は過失と民法第一〇九条の責任の有無
 民法第一〇九条の表見代理行為の相手方に過失があるとされた事例

裁判要旨

 民法第一〇九条の代理権授与表示者が、代理行為の相手方の悪意または過失を主張・立証した場合には、同条所定の責任を免れることができる。
 甲が代理権を乙に授与した旨表示し、乙が、甲の代理人として、丙と甲所有の不動産について根抵当権を設定する旨の契約を締結した場合において、乙が右不動産の権利証、甲の白紙委任状及び印鑑証明書等を所持していたとしても、右契約は乙が代表取締役である丁会社の丙に対する債務を担保する目的で締結されたものであり、丙は右不動産を評価する目的で甲方を訪れたことがあるのに、乙の権限について確めなかつた等判示のような事情があるときは、丙が乙に右契約締結の代理権があると信じたことには過失があるというべきである。

参照法条

民法109

         主    文

     本件上告を棄却する。

     上告費用は上告人の負担とする。

         理    由

 上告代理人藤井暹の上告理由について。

 民法一〇九条にいう代理権授与表示者は、代理行為の相手方の悪意または過失を主張、立証することにより、同条所定の責任を免れることができるものと解すべきである。本件において、原審が適法に確定した事実によれば、「上告人は、被上告人ら所有の本件不動産の登記済権利証、被上告人らの白紙委任状及び印鑑証明書等を所持し、被上告人らの代理人と称するDと、本件不動産を目的物とする根抵当権設定契約を締結したが、被上告人らは、Dに右契約締結の代理権を授与したことはなく、単に、これを授与した旨表示したものと解される。右根抵当権設定契約は、上告人とD石油株式会社との間の石油類販売契約に基づく上告人の右会社に対する代金債権を担保する目的で締結されたもので、Dは、右会社の代表取締役であつた。右契約において上告人を代理したEは、D石油株式会社及びD個人に資産のみるべきもののないことを了知していたが、一方、担保物の提供者たる被上告人と面識をもたず、また、被上告人らとDとの関係についてもなんら知るところがなかつた。Eは、右契約締結に先立ち、本件不動産を評価する目的で被上告人ら方を訪れたことがあつた。しかし、上告人は、Dの代理権について、これを確かめるためのなんらの措置もとらなかつた。」というのである。右のような事実関係のもとにおいては、上告人は、直接、本人である被上告人らにDの代理権の有無を確かめる取引上の義務を負い、このような措置をとることなく、漫然Dに前記契約締結の代理権ありと信ずるにいたつたことには過失があり、民法一〇九条所定の表見代理は成立しないものというべきである。したがつて、右事実関係のもとにおいて、被上告人らは、Dと上告人との間で締結された前記根抵当権設定契約についてその責に任ずるものではないとした原審の判断は正当であり、原判決に所論の違法はなく、論旨は採るをえない。

 よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

     最高裁判所第二小法廷

         裁判長裁判官    奥   野   健   一

            裁判官    山   田   作 之 助

            裁判官    草   鹿   浅 之 介

            裁判官    城   戸   芳   彦

            裁判官    石   田   和   外

最判平28.2.19山梨県信

平成25()259 退職金請求事件 平成28219日 第二小法廷 判決 破棄差戻 民集 第702123

 

東京高等裁判所 平成24()6685 平成25829

 

判示事項

 就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無についての判断の方法
2 合併により消滅する信用協同組合の職員が,合併前の就業規則に定められた退職金の支給基準を変更することに同意する旨の記載のある書面に署名押印をした場合において,上記変更に対する当該職員の同意があるとした原審の判断に違法があるとされた事例

裁判要旨

 就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については,当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく,当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度,労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様,当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして,当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも,判断されるべきである。
 合併により消滅する信用協同組合の職員が,合併前の就業規則に定められた退職金の支給基準を変更することに同意する旨の記載のある書面に署名押印をした場合において,その変更は上記組合の経営破綻を回避するための上記合併に際して行われたものであったが,上記変更後の支給基準の内容は,退職金総額を従前の2分の1以下とした上で厚生年金制度に基づく加算年金の現価相当額等を控除するというものであって,自己都合退職の場合には支給される退職金額が0円となる可能性が高かったことなど判示の事情の下で,当該職員に対する情報提供や説明の内容等についての十分な認定,考慮をしていないなど,上記署名押印が当該職員の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点から審理を尽くすことなく,上記署名押印をもって上記変更に対する当該職員の同意があるとした原審の判断には,違法がある。

参照法条

(1,2につき)労働基準法2条1項,労働契約法3条1項,労働契約法8条,労働契約法9条

 

主 文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

 

理 由

上告代理人加藤啓二,同長田清明の上告受理申立て理由第2,第3の3,第4の1について

本件は,A信用組合の職員であった上告人らが,同組合と被上告人(平成16年2月16日に変更される前の名称は,B信用組合)との平成15年1月14日の合併(以下「本件合併」という。)により上告人らに係る労働契約上の地位を承継した被上告人に対し,退職金の支払を求める事案である。上告人らの主張する退職金額は,A信用組合の本件合併当時の職員退職給与規程(以下「旧規程」という。)における退職金の支給基準に基づくものである。これに対し,被上告人は,上告人らに係る退職金の支給基準については,個別の合意又は労働協約の締結により,本件合併に伴い定められた退職給与規程(以下「新規程」という。)における退職金の支給基準に変更されたなどと主張して争っている。

 

原審の確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。

(1) A信用組合は,平成13年頃,経営破綻が懸念される状況となったことから,その破綻を回避するために,被上告人に対して合併を申し入れた。そして,平成14年6月29日,両者の間で本件合併を目的とする合併契約が締結され,同契約において,本件合併によりA信用組合は解散し,被上告人が存続すること,本件合併時にA信用組合に在職する職員に係る労働契約上の地位は,被上告人が承継すること,上記の職員に係る退職金は,本件合併の際には支給せず,合併後に退職する際に,合併の前後の勤続年数を通算して被上告人の退職給与規程により支給することなどが合意された。また,本件合併の準備を進めるため,両者の理事により構成される合併協議会が発足した。

(2) 合併協議会の依頼を受けて,A信用組合の職員に係る本件合併後の労働条件について検討した社会保険労務士は,平成14年11月,本件合併後の労働条件に対する職員の同意を取り付けるための同意書案を作成した。この同意書案には,本件合併時にA信用組合に在職する職員に支給される具体的な退職金額について,本件合併前から被上告人の職員である者に係る退職金の支給基準に合わせてこれと同一水準とすることを保障する旨が記載されていた。しかし,その後,この点に関しては被上告人側から問題が提起され,更に検討が続けられた。

(3) 平成14年12月19日の合併協議会において,A信用組合の職員に係る本件合併後の退職金の支給基準につき,旧規程の支給基準の一部を変更した新規程の支給基準とすることが承認された。

上記の変更により,退職金額の計算の基礎となる給与額(以下「基礎給与額」という。)につき,旧規程では退職時の本俸の月額とされていたのに対し,新規程では退職時の本俸の月額を2分の1に減じた額とされ,基礎給与額に乗じられる支給倍数(勤続年数に,定年等の事由による普通退職又は自己都合退職に応じた所定の係数を乗じて得られる数。以下同じ。)につき,旧規程では上限が定められていなかったのに対し,新規程では上限が55.5とされた(以下,上記①及び②の退職金の支給基準の変更を「本件基準変更」という。)

一方,旧規程では,全国信用組合厚生年金規約に定める加算年金又は加算一時金の給付を受ける者につき,退職金総額(基礎給与額に支給倍数を乗じて得られる金額。以下同じ。)から年金現価相当額又は一時金額(以下「厚生年金給付額」という。)を控除して支給するものとされていた(以下,このような控除による支給の方式を「内枠方式」という。)ところ,被上告人の従前からの職員に係る支給基準では内枠方式は採用されていなかったにもかかわらず,新規程では,旧規程の内枠方式が維持された。また,A信用組合が加入していた企業年金保険が本件合併時に解約されることにより職員に還付される一時金の金額(以下「企業年金還付額」という。)についても,退職金総額から控除するものとされた(これに対し,被上告人においては,企業年金保険に加入していなかった。)

このように,本件基準変更後の新規程の支給基準の内容は,退職金総額を従前の2分の1以下とする一方で,内枠方式については従前のとおりとして退職金総額から厚生年金給付額を控除し,更に企業年金還付額も控除するというものであり,これらの結果として,新規程により支給される退職金額は,旧規程により支給される退職金額と比べて著しく低いものとなった。

(4) 平成14年12月13日にA信用組合で開催された職員説明会では,同組合の常務理事が,前記(2)の同意書案を各職員に配付した上,上記(3)のような本件基準変更後の退職金額の計算方法について説明した。

また,上記常務理事は,上記説明会の後,上告人らのうちA信用組合の当時の管理職員であった者8名(以下「管理職上告人ら」という。)に対し,自ら作成した退職金一覧表(以下「本件退職金一覧表」という。)を個別に示し,希望者にはその写しを交付した。本件退職金一覧表は,本件合併時に準備されるべき退職金の引当金額の算出を目的として作成されたものであり,ここに記載された引当金額は,本件基準変更後の退職金額の計算方法に基づき,平成14年12月末日現在の退職金額を,普通退職であることを前提として算出したものであった。

(5) 平成14年12月20日,A信用組合の常務理事や監事らは,管理職上告人らを含む20名の管理職員に対し,同日付けの同意書(以下「本件同意書」という。)を示し,これに同意しないと本件合併を実現することができないなどと告げて本件同意書への署名押印を求め,上記の管理職員全員がこれに応じて署名押印をした。本件同意書には,前記(3)の合併協議会において承認された本件基準変更の内容及び新規程の支給基準の概要が記載されるとともに,本件合併後の労働条件がそのとおりとなることに同意する旨の文言が記載されていた。

また,同日,A信用組合の代表理事と,その職員組合(以下「本件職員組合」という。)の執行委員長は,本件合併後の退職金の支給基準を新規程の支給基準とする旨の記載のある労働協約書(以下「本件労働協約書」といい,これに基づく労働協約を「本件労働協約」という。)に署名又は記名をし,押印をした。なお,本件職員組合の規約によれば,その機関として大会及び執行委員会が置かれるとともに,役員として執行委員長等が置かれており,執行委員長は,本件職員組合を代表し,その業務を統括するものとされている。

(6) 本件合併は,平成15年1月14日をもってその効力を生じ,同日から新規程が実施された。

(7) その後,被上告人は,平成16年2月16日,更にC県内の三つの信用協同組合と合併し(以下,この合併を「平成16年合併」という。),現在の名称に変更した。

平成16年合併に先立ち,合併後の労働条件について職員に説明するための「合併に伴う新労働条件の職員説明について(指示書)と題する文書(以下「本件説明指示書」という。)が作成された。この文書には,上記合併前の在職期間に係る退職金については,合併前に当該職員に適用されていた退職給与規程に基づいて計算された金額を,合併後に退職するときに支給する,上記合併後の在職期間に係る退職金については,合併後3年以内をめどに制定される新退職金制度によるものとする,ただし,上記合併前の在職期間に係る退職金につき,退職金額の計算上,基礎給与額に乗じられる所定の係数が退職理由に応じて異なる場合には,自己都合退職の係数を用いるものとする,また,上記合併後の在職期間に係る退職金につき,新退職金制度の制定前に自己都合により退職する者についてはこれを支給しないものとする旨が記載されていた(以下,上記③及び④の退職金の支給基準の変更を「平成16年基準変更」という。)

被上告人の代表理事は,各支店長及びD地区統括本部の審査部長に対し,本件説明指示書に記載された労働条件の変更の内容を各所属の職員に対し口頭で説明し周知することを指示した。これを受けて,上記各支店長等は,平成16年2月2日頃,各所属の職員に対し,本件説明指示書のうち労働条件の変更について記載された部分を読み上げ,上記各支店長等及び上記各所属の職員(上告人らもこれらに含まれる。)は,「合併に伴う新労働条件の職員説明について(報告書)と題する文書(以下「本件報告書」という。)中の「新労働条件による就労に同意した者の氏名」欄に,それぞれ署名をした。

(8) 被上告人は,平成21年4月1日から,平成16年合併後の新退職金制度を定める職員退職金規程(以下「平成21年規程」という。)を実施した。上告人らのうち5名は平成21年規程の実施前に退職し,その余の7名はその実施後に退職した。

平成16年合併前の在職期間に係る退職金については,上告人らのいずれについても,本件基準変更及び平成16年基準変更による変更後の支給基準が適用された結果,退職時の本俸の月額を2分の1に減じた額に勤続年数及び自己都合退職の係数を乗じて得られる退職金総額よりも,厚生年金給付額及び企業年金還付額による控除額の方が高くなり,支給される退職金額は0円となった。また,上記合併後の在職期間に係る退職金については,上告人らのうち平成21年規程の実施前に自己都合により退職した者には,平成16年基準変更による変更後の支給基準が適用された結果,退職金が支給されなかった。

 

原審は,上記事実関係等の下において,要旨次のとおり判断し,上告人らの請求をいずれも棄却すべきものとした。

(1) 管理職上告人らは,本件退職金一覧表の提示を受けて,本件合併後に被上告人に残った場合の当面の退職金額とその計算方法を具体的に知ったものであり,本件同意書の内容を理解した上でこれに署名押印をしたのであるから,本件同意書への署名押印により本件基準変更に同意したものということができる。したがって,管理職上告人らについては,合意による本件基準変更の効力が生じている。

また,上告人らの本件報告書への署名も上告人らの意思に基づくものである以上,上告人らは平成16年基準変更に同意したものということができる。したがって,上告人らについては,合意による平成16年基準変更の効力が生じている。

(2) 本件労働協約の締結については,本件職員組合の規約により執行委員長に包括的な代表権限が付与されている以上,大会又は執行委員会による決定等を経ていなかったとしても,そのことから直ちに,権限を有しない者によりされたものとはいえない。したがって,上告人らのうち本件職員組合の組合員であった者4名(上告人らのうち管理職上告人ら以外の者。以下「組合員上告人ら」という。)については,本件労働協約の締結による本件基準変更の効力が生じている。

 

しかしながら,原審の上記判断はいずれも是認することができない。その理由は,次のとおりである。

(1) 本件基準変更及び平成16年基準変更に係る合意について

労働契約の内容である労働条件は,労働者と使用者との個別の合意によって変更することができるものであり,このことは,就業規則に定められている労働条件を労働者の不利益に変更する場合であっても,その合意に際して就業規則の変更が必要とされることを除き,異なるものではないと解される(労働契約法8条,9条本文参照)。もっとも,使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には,当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても,労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており,自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば,当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく,当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると,就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については,当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく,当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度,労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様,当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして,当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも,判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁,最高裁昭和63年(オ)第4号平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁等参照)

() これを本件基準変更に対する管理職上告人らの同意の有無についてみると,本件基準変更は,A信用組合の経営破綻を回避するために行われた本件合併に際し,その職員に係る退職金の支給基準につき,旧規程の支給基準の一部を変更するものであり,管理職上告人らは,本件基準変更への同意が本件合併の実現のために必要である旨の説明を受けて,本件基準変更に同意する旨の記載のある本件同意書に署名押印をしたものである。そして,この署名押印に先立ち開催された職員説明会で各職員に配付された前記2(2)の同意書案には,被上告人の従前からの職員に係る支給基準と同一水準の退職金額を保障する旨が記載されていたのである。ところが,本件基準変更後の新規程の支給基準の内容は,退職金総額を従前の2分の1以下とする一方で,内枠方式については従前のとおりとして退職金総額から厚生年金給付額を控除し,更に企業年金還付額も控除するというものであって,前記2(8)のとおり,上告人らの退職時において平成16年合併前の在職期間に係る退職金として支給される退職金額が,その計算に自己都合退職の係数が用いられた結果,いずれも0円となったことに鑑みると,退職金額の計算に自己都合退職の係数が用いられる場合には支給される退職金額が0円となる可能性が高いものであったということができ,また,内枠方式を採用していなかった被上告人の従前からの職員に係る支給基準との関係でも,上記の同意書案の記載と異なり,著しく均衡を欠くものであったということができる。

上記のような本件基準変更による不利益の内容等及び本件同意書への署名押印に至った経緯等を踏まえると,管理職上告人らが本件基準変更への同意をするか否かについて自ら検討し判断するために必要十分な情報を与えられていたというためには,同人らに対し,旧規程の支給基準を変更する必要性等についての情報提供や説明がされるだけでは足りず,自己都合退職の場合には支給される退職金額が0円となる可能性が高くなることや,被上告人の従前からの職員に係る支給基準との関係でも上記の同意書案の記載と異なり著しく均衡を欠く結果となることなど,本件基準変更により管理職上告人らに対する退職金の支給につき生ずる具体的な不利益の内容や程度についても,情報提供や説明がされる必要があったというべきである。

() しかしながら,原審は,管理職上告人らが本件退職金一覧表の提示により本件合併後の当面の退職金額とその計算方法を知り,本件同意書の内容を理解した上でこれに署名押印をしたことをもって,本件基準変更に対する同人らの同意があったとしており,その判断に当たり,上記()のような本件基準変更による不利益の内容等及び本件同意書への署名押印に至った経緯等について十分に考慮せず,その結果,その署名押印に先立つ同人らへの情報提供等に関しても,職員説明会で本件基準変更後の退職金額の計算方法の説明がされたことや,普通退職であることを前提として退職金の引当金額を記載した本件退職金一覧表の提示があったことなどを認定したにとどまり,上記()のような点に関する情報提供や説明がされたか否かについての十分な認定,考慮をしていない。

() したがって,本件基準変更に対する管理職上告人らの同意の有無につき,上記()のような事情に照らして,本件同意書への同人らの署名押印がその自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点から審理を尽くすことなく,同人らが本件退職金一覧表の提示を受けていたことなどから直ちに,上記署名押印をもって同人らの同意があるものとした原審の判断には,審理不尽の結果,法令の適用を誤った違法がある。

また,平成16年基準変更に対する上告人らの同意の有無については,上告人らが本件報告書に署名をしたことにつき,上告人らに新規程が適用されることを前提として更にその退職金額の計算に自己都合退職の係数を用いることなどを内容とする平成16年基準変更に同意したものか否かが問題とされているところ,原審は,上記イと同様に,前記アのような観点から審理を尽くすことなく,直ちに上記署名をもって上告人らの同意があるものとしたのであるから,その判断には,審理不尽の結果,法令の適用を誤った違法がある(なお,平成16年基準変更に際して就業規則の変更がされていないのであれば,平成16年基準変更に対する上告人らの同意の有無につき審理判断するまでもなく,平成19年法律第128号による改正前の労働基準法93条により,就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める合意として無効となるものと解される。)

(2) 本件基準変更に係る労働協約の締結について

本件労働協約は,本件職員組合の組合員に係る退職金の支給につき本件基準変更を定めたものであるところ,本件労働協約書に署名押印をした執行委員長の権限に関して,本件職員組合の規約には,同組合を代表しその業務を統括する権限を有する旨が定められているにすぎず,上記規約をもって上記執行委員長に本件労働協約を締結する権限を付与するものと解することはできないというべきである。そこで,上記執行委員長が本件労働協約を締結する権限を有していたというためには,本件職員組合の機関である大会又は執行委員会により上記の権限が付与されていたことが必要であると解されるが,原審は,このような権限の付与の有無について,何ら審理判断していない。したがって,上記の点について審理を尽くすことなく,上記規約の規定のみを理由に本件労働協約が権限を有しない者により締結されたものとはいえないとして,組合員上告人らにつき本件労働協約の締結による本件基準変更の効力が生じているとした原審の判断には,審理不尽の結果,法令の適用を誤った違法がある。

 

以上のとおり,原審の判断には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり,原判決は破棄を免れない。そして,上記4において説示した点について更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととする。

よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 千葉勝美 裁判官 小貫芳信 裁判官 鬼丸かおる 裁判官 山本庸幸)

最決平22.5.31明石花火大会歩道橋

平成19()1634 業務上過失致死傷被告事件 平成22531日 第一小法廷 決定 棄却 刑集 第644447

 

大阪高等裁判所 平成19()567 平成1946

 

判示事項

花火大会が実施された公園と最寄り駅とを結ぶ歩道橋で多数の参集者が折り重なって転倒して死傷者が発生した事故について,雑踏警備に関し現場で警察官を指揮する立場にあった警察署地域官及び現場で警備員を統括する立場にあった警備会社支社長に業務上過失致死傷罪が成立するとされた事例

裁判要旨

花火大会が実施された公園と最寄り駅とを結ぶ歩道橋で多数の参集者が折り重なって転倒して死傷者が発生した事故について,雑踏警備に関し現場で警察官を指揮する立場にあった警察署地域官及び現場で警備員を統括する立場にあった警備会社支社長の両名において,いずれも上記のような事故の発生を容易に予見でき,かつ,機動隊による流入規制等を実現して本件事故を回避することが可能であった本件事実関係(判文参照)の下では,両名には上記事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務を怠った過失があり,それぞれ業務上過失致死傷罪が成立する。

参照法条

刑法(平成13年法律第138号による改正前のもの)211条前段

 

主文

本件各上告を棄却する。

 

理由

第1 上告趣意に対する判断

被告人Aの弁護人中原和之,同佐柳秀樹の上告趣意は,事実誤認,量刑不当の主張であり,被告人Bの弁護人小田幸児,同鈴木一郎の上告趣意は,違憲をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認,量刑不当の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。

 

第2 職権判断

所論にかんがみ,被告人両名に対する業務上過失致死傷罪の成否について,職権で判断する。

原判決及びその是認する第1審判決の認定並びに記録によると,本件の事実関係は次のとおりである。

(1) 平成13年7月20日及び同月21日の2日間にわたって兵庫県明石市において開催された第32回明石市民夏まつりの2日目に,午後7時45分ころから午後8時30分ころまでの間大蔵海岸公園で花火大会等が実施されたが,そこに参集した多数の観客が最寄りの西日本旅客鉄道株式会社朝霧駅と大蔵海岸公園とを結ぶ通称朝霧歩道橋に集中して過密な滞留状態となり,また,花火大会終了後朝霧駅から大蔵海岸公園へ向かう参集者と同公園から朝霧駅方面へ向かう参集者とが押し合うことなどにより,強度の群衆圧力が生じ,同日午後8時48分ないし49分ころ,歩道橋上において,多数の参集者が折り重なって転倒するいわゆる群衆なだれが発生し,その結果,11名が全身圧迫による呼吸窮迫症候群(圧死)等により死亡し,183名が傷害を負うという事故が発生した。

(2) 被告人Aは,兵庫県明石警察署地域官として,本件夏まつりの雑踏警備計画の企画・立案を掌理するほか,本件夏まつりにおける現地警備本部指揮官として,現場において雑踏警戒班指揮官ら配下警察官を指揮して,参集者の安全を確保すべき業務に従事していたものである。本件当日,大蔵海岸公園及びその周辺には,管区機動隊員72人を含め総勢150人以上の警察官が配置され,被告人Aは,雑踏警戒班を指揮するのみならず,機動隊についても,明石警察署長らを介し又は直接要請することにより,自己の判断でその出動を実現できる立場にあった。

被告人Bは,警備業を営む株式会社Cの大阪支社長であり,本件夏まつりの実質的主催者である明石市と株式会社Cとの契約に基づき,明石市の行う本件夏まつりの自主警備の実施についての委託を受けて,本件夏まつりの会場警備に従事する警備員の統括責任者として,明石市の担当者らとともに参集者の安全を確保する警備体制を構築するほか,これに基づく警備を実施すべき業務に従事していたものである。本件当日,被告人Bは,総勢130人以上の警備員を統括していた。

(3) 本件夏まつりに関しては,その当日に至るまでにも,以下のような雑踏事故の原因となり得る事情等があった。

本件夏まつりの会場となった大蔵海岸公園は,朝霧駅の南方に位置し,同駅とは,本件歩道橋によって接続されており,朝霧駅を利用して集まってきた参集者を始め,多くの観客が歩道橋を通って大蔵海岸公園に参集することが予想されるものであった。

本件歩道橋は,全長約103.65m,歩行者有効幅員約6mであって,歩道橋南側は展望に適したテラス兼エレベーターホール(合計約69.9㎡)となっており,歩道橋南端部には,約80度に西向きに折れた幅約3.2m,長さ約18m,48段の階段(途中2か所に踊り場がある。)があり,これによって約7.2m下の大蔵海岸公園を東西に走る市道大蔵町48号線の南側歩道に接しているが,歩道橋のこのような構造や,歩道橋南端部や南側階段は大蔵海岸東側の堤防から打ち上げられる花火の絶好の観覧場所となることから,その南端部付近や南側階段において参集者が滞留し,大混雑を生じることが容易に予想されるものであった。

本件夏まつりにおいては,180余の夜店が本件歩道橋南側階段下の市道大蔵町48号線の南北歩道上に出店することとなっていたことから,夜店周辺に参集者が密集して人の流れが滞り,また,歩道橋南側階段南西側の芝生広場(海峡広場)は花火を観覧するのに絶好の場所であることから,そこに参集者が集まって場所取りなどをすることにより,歩道橋南側階段からの参集者の流出が妨げられ,それらによっても,歩道橋南端部付近や南側階段において参集者が滞留することなどが予想されるものであった。

本件夏まつりの花火大会は,平成13年7月21日午後7時45分に開始され,午後8時30分に終了することが予定されていたため,花火大会の開始時刻に合わせて朝霧駅側から多数の参集者が本件歩道橋を通って大蔵海岸公園に集まってくること,また,花火大会終了前後からは,いち早く帰路につこうとする参集者が朝霧駅方面に向かうために歩道橋に殺到すること,それによって,歩道橋内において双方向に向かう参集者の流れがぶつかり,滞留が一層激しくなることが予想されるものであった。

大蔵海岸公園においては,平成12年12月31日から翌平成13年1月1日にかけて,約5万5000人が参集したいわゆるカウントダウン花火大会が行われたが,その際,大蔵海岸公園に向かう参集者が本件歩道橋に集中して相当の混雑状態となり,特に午前0時10分の花火終了直後からは,歩道橋内を朝霧駅から大蔵海岸公園に向かう参集者と同公園から朝霧駅方面に向かう参集者とが歩道橋南端部付近や南側階段で押し合うなどして110番通報が多数されるほどの混雑密集状態となったため,花火大会終了後,歩道橋北側出入口付近において,警備員が流入規制をするとともに,歩道橋南側階段下において,警備員約10人と警察官数人が横に並んで人垣を作るなどして参集者の流入を規制し,歩道橋をう回させるために歩道橋南側階段から西側通路への誘導広報を徹底し,さらに,歩道橋南側階段下において,上に登ろうとする参集者を整列させて整理して,歩道橋上及び歩道橋南側階段上にいた参集者の混雑をいったん完全に解消させてから,同階段下から退場する参集者について歩道橋を北側に通行させる方法をとるなどして,辛うじて雑踏事故の発生を防止することができた状況であった。

本件夏まつりは,従来からの会場を変更して,大蔵海岸公園において初めて行われたものであって,夏まつりについては同会場での雑踏警備の実績はなく,前記カウントダウン花火大会が参考になるものであったが,本件夏まつりには,カウントダウン花火大会をはるかに上回る10万人を超える参集者が見込まれた上,その行事の性質上,幼児を含む年少者や高齢者なども多数参集してくることが予想されるものであった。

本件夏まつりに向けて,明石市,株式会社C及び明石警察署の三者により,雑踏警備計画策定に向けた検討が重ねられてきたが,そこでは,本件歩道橋における参集者の滞留による混雑防止のための有効な方策は講じられず,また,歩道橋の混雑状況をどのようにして監視するのか,そして,混雑してきた場合にどのような規制方法をとるのか,どのような事態になった場合に,警察による規制を要請するのか,その場合の主催者側と明石警察署との間の連携体制をどのようにするのかなどといった詳細について,具体的な計画は策定されていなかった。

(4) 本件当日においては,事前に予想されたとおり,午後6時ころから,朝霧駅側から多数の参集者が本件歩道橋に流入し始め,午後7時ころには,歩道橋に参集者が滞留し始め,次第に歩道橋の通行が困難になりつつあった上,午後7時45分の花火大会開始に向けて,更に多くの参集者が歩道橋に流入して滞留し,混雑が進行する状況になっていた。

(5) 被告人Aは,花火大会開始前において,前記(3)アないしエ,カ及びキ並びに(4)のうち少なくとも客観的事実については認識しており,また,(3)オのカウントダウン花火大会の際に混雑が生じたことも担当者から説明を受けて知っていたものであるところ,さらに,本件当日午後8時ころまでには,被告人Bから,本件歩道橋内の混雑を理由に歩道橋内への流入規制の打診を受け,また,雑踏警戒班の指揮官を務めていた配下警察官から,歩道橋内の非常な混雑状態及び今後更に混雑の度を増す不安を理由に,歩道橋内への流入規制のため会場周辺に配置されている管区機動隊の導入の検討を求める旨の報告を受けたことなどにより,遅くともその時点では,歩道橋内が流入規制等を必要とする過密な滞留状態に達していることを認識した。しかし,被告人Aは,午後8時ころの時点において,直ちに,流入規制等を行うよう配下警察官を指揮するとともに機動隊の出動を明石警察署長らを介し又は直接要請する措置を講じなかった。

(6) 被告人Bは,花火大会開始前において,前記(3)アないしエ,カ及びキ並びに(4)のうち少なくとも客観的事実については認識しており,また,(3)オのカウントダウン花火大会の際には,被告人Bは,会場である大蔵海岸に設置された大蔵警備本部の管制責任者として警備業務に従事し,本件歩道橋の混雑状況やこれに対していかなる措置をとって転倒事故等の発生を防止したかなどについて認識していたものであるところ,さらに,本件当日午後8時ころまでには,本部直轄遊撃隊の警備員から,歩道橋内の非常な混雑状態を理由に警察官による歩道橋北側での流入規制の依頼を要請されたことなどにより,遅くともその時点では,歩道橋内が警察官による流入規制等を必要とする過密な滞留状態に達していることを認識した。しかし,被告人Bは,午後8時直前ころの時点において,被告人Aに対し,一度は「前が詰まってどうにもなりません。ストップしましょうか。」などの言い方で,歩道橋内の警察官による流入規制について打診をしたものの,被告人Aの消極的な反応を受けてすぐに引き下がり,結局,被告人Bは,明石市の担当者らに警察官の出動要請を進言し,又は自ら自主警備側を代表して警察官の出動を要請する措置を講じなかった。

(7) ところで,本件歩道橋の周辺には,朝霧駅北側及び夏まつり会場の西側に当たる大蔵海岸中交差点において,それぞれ相当数の機動隊員が配置されていたのであり,機動隊に対して遅くとも午後8時10分ころまでに出動指令があったならば,機動隊は,花火大会終了が予定される午後8時30分ころよりも前に歩道橋に到着し,歩道橋階段下から歩道橋内に流入する参集者の流れを阻止し,歩道橋南端部付近にいる参集者の北進を禁止する広報をし,階段上の参集者を階段下に誘導し,さらに,歩道橋北側からの参集者の流入を規制して北側への誘導を行うことなどにより,滞留自体の激化を防止し,これによって,群衆なだれによって多数の死傷者を生じさせた本件事故は,回避することができたと認められる。

以上の事実関係に基づき,被告人両名の罪責について判断する。

前記のとおり,被告人Aは,明石警察署地域官かつ本件夏まつりの現地警備本部指揮官として,現場の警察官による雑踏警備を指揮する立場にあったもの,被告人Bは,明石市との契約に基づく警備員の統括責任者として,現場の警備員による雑踏警備を統括する立場にあったものであり,本件当日,被告人両名ともに,これらの立場に基づき,本件歩道橋における雑踏事故の発生を未然に防止し,参集者の安全を確保すべき業務に従事していたものである。しかるに,原判決の判示するように,遅くとも午後8時ころまでには,歩道橋上の混雑状態は,明石市職員及び警備員による自主警備によっては対処し得ない段階に達していたのであり,そのころまでには,前記各事情に照らしても,被告人両名ともに,直ちに機動隊の歩道橋への出動が要請され,これによって歩道橋内への流入規制等が実現することにならなければ,午後8時30分ころに予定される花火大会終了の前後から,歩道橋内において双方向に向かう参集者の流れがぶつかり,雑踏事故が発生することを容易に予見し得たものと認められる。そうすると,被告人Aは,午後8時ころの時点において,直ちに,配下警察官を指揮するとともに,機動隊の出動を明石警察署長らを介し又は直接要請することにより,歩道橋内への流入規制等を実現して雑踏事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があったというべきであり,また,被告人Bは,午後8時ころの時点において,直ちに,明石市の担当者らに警察官の出動要請を進言し,又は自ら自主警備側を代表して警察官の出動を要請することにより,歩道橋内への流入規制等を実現して雑踏事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があったというべきである。そして,前記のとおり,歩道橋周辺における機動隊員の配置状況等からは,午後8時10分ころまでにその出動指令があったならば,本件雑踏事故は回避できたと認められるところ,被告人Aについては,前記のとおり,自己の判断により明石警察署長らを介し又は直接要請することにより機動隊の出動を実現できたものである。また,被告人Bについては,原判決及び第1審判決が判示するように,明石市の担当者らに警察官の出動要請を進言でき,さらに,自らが自主警備側を代表して警察官の出動を要請することもできたのであって,明石市の担当者や被告人Bら自主警備側において,警察側に対して,単なる打診にとどまらず,自主警備によっては対処し得ない状態であることを理由として警察官の出動を要請した場合,警察側がこれに応じないことはなかったものと認められる。したがって,被告人両名ともに,午後8時ころの時点において,上記各義務を履行していれば,歩道橋内に機動隊による流入規制等を実現して本件事故を回避することは可能であったということができる。

そうすると,雑踏事故はないものと軽信し,上記各注意義務を怠って結果を回避する措置を講じることなく漫然放置し,本件事故を発生させて多数の参集者に死傷の結果を生じさせた被告人両名には,いずれも業務上過失致死傷罪が成立する。これと同旨の原判断は相当である。

よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官横田尤孝 裁判官宮川光治 裁判官櫻井龍子 裁判官金築誠志 裁判官白木勇)

最決平12.12.20生駒トンネル火災・中間項の理論

平成10()579 業務上失火、業務上過失致死傷被告事件 平成121220日 第二小法廷 決定 棄却 刑集 第5491095

 

大阪高等裁判所 平成8()190 平成10325

 

判示事項

鉄道トンネル内における電力ケーブルの接続工事を施工した業者につきトンネル内での火災発生の予見可能性が認められた事例

裁判要旨

鉄道トンネル内における電力ケーブル接続工事に際し、施工資格を有してその工事に当たった者が、ケーブルに特別高圧電流が流れる場合に発生する誘起電流を接地するための接地銅板を接続器に取り付けることを怠ったため、誘起電流が大地に流されずに、接続器本体の半導電層部に流れて炭化導電路を形成し、長期間にわたり同部分に集中して流れ続けたことにより、火災が発生したという事実関係の下においては、右の者は、炭化導電路の形成という経過を具体的に予見することができなかったとしても、火災発生を予見することができたものというべきである。

参照法条

刑法117条の2,刑法211

 

         主    文

  本件上告を棄却する。

 

         理    由

 弁護人平野惠稔外四名の上告趣意のうち、憲法違反をいう点は、実質は単なる法令違反の主張であり、判例違反をいう点は、判例の具体的摘示を欠いた主張であり、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、適法な上告理由に当たらない。

 なお、原判決の認定するところによれば、近畿日本鉄道東大阪線生駒トンネル内における電力ケーブルの接続工事に際し、施工資格を有してその工事に当たった被告人が、ケーブルに特別高圧電流が流れる場合に発生する誘起電流を接地するための大小二種類の接地銅板のうちの一種類をY分岐接続器に取り付けるのを怠ったため、右誘起電流が、大地に流されずに、本来流れるべきでないY分岐接続器本体の半導電層部に流れて炭化導電路を形成し、長期間にわたり同部分に集中して流れ続けたことにより、本件火災が発生したものである。右事実関係の下においては、被告人は、右のような炭化導電路が形成されるという経過を具体的に予見することはできなかったとしても、右誘起電流が大地に流されずに本来流れるべきでない部分に長期間にわたり流れ続けることによって火災の発生に至る可能性があることを予見することはできたものというべきである。したがって、本件火災発生の予見可能性を認めた原判決は、相当である。

 よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 北川弘治 裁判官 河合伸一 裁判官 福田 博 裁判官 亀山

継夫 裁判官 梶谷 玄)

最判平4.7.10結果回避可能性

平成3()491 業務上過失致死 平成4710日 第二小法廷 判決 破棄自判 集刑 第260311

 

福岡高等裁判所  那覇支部 平成3411

 

判示事項

夜間無灯火で自車の進行車線を逆行して来た対向車と正面衝突した事故につき自動車運転者の過失が否定された事例

参照法条

刑法211

         主    文

     原判決及び第一審判決を破棄する。

     被告人は無罪。

 

         理    由

 弁護人下地裕の上告趣意は、憲法違反、判例違反をいうが、その実質は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

 しかしながら、所論にかんがみ職権により調査すると、原判決及び第一審判決は、以下の理由により破棄を免れない。

 一 原判決及びその是認する第一審判決の認定によると、被告人は、昭和五九年一〇月一〇日午後八時一五分ころ、業務として普通乗用自動車(以下「被告人車」という。)を運転し、沖縄県沖縄市ab番地先国道三二九号線(直線の四車線道路)の左側部分第二通行帯をc方面(北方)からd交差点方面(南方)に向かい時速約四〇キロメートルで進行中、被告人車が進行中の右第二通行帯を無灯火のまま対向進行して来たA(当時二九歳)運転の普通乗用自動車(以下「A車」という。)を前方約七・九メートルに迫って初めて発見し、急制動の措置を講じたが及ばず、同車右前部に自車右前部を衝突させ、その結果、同日午後一〇時ころ同人を胸腔内大量出血に基づく呼吸循環不全により死亡させたというのである。

  本件においては被告人の過失の有無が争点であるところ、第一審判決は、被告人には前方不注視の過失があったとし、原判決は、次の理由により、第一審判決を是認した。(1)被告人は、第一通行帯への進路変更を予定して左前方に気を奪われ、前方注視を欠いていた。(2)A車は衝突地点から約四〇・一メートル南方の地点で既に中央線を越えて被告人車が進行中の右第二通行帯を進行しており、被告人が前方を注視していれば、少なくとも被告人車の前方約二四・五メートルないし三〇メートルの地点にA車を発見できた。(3)A車の速度を、被告人に最も有利に、時速三五キロメートルとし、被告人車の速度を時速四〇キロメートル、被告人がハンドルを進行方向左方に切って衝突を回避するのに必要な時間を〇・九秒とすると、被告人がA車を確認して同車との衝突を避けるためには、両車両の間に少なくとも一八・七四メートルの距離が必要である。(4) 衝突時、A車はその進行方向に対しやや左方に向いていた上、事故当時現場付近の被告人車の進路左側の第一通行帯には走行中の車両や駐車車両がなかったことは被告人の自認するところであるから、被告人において前方を注視していたならば、A車が被告人車の前方一八・七四メートルに接近するまでにこれを発見し、進行方向左方へハンドルを切ることにより、A車との衝突を回避できたことは明らかである。

 三 右のとおり、原判決は、被告人が、一八・七四メートルに接近するまでにA車を発見することができ、同車を発見した後進行方向左方へハンドルを切ることにより本件事故を回避できたとするが、進行方向左方へハンドルを切ることにより回避が可能であるというためには、被告人において回避措置を採るべき時点で、A車がそのまま直進するのかあるいは左右いずれかに進路を変更し回避の措置を講ずるのかなど、同車の進路を予測することが可能でなければならない。しかしながら、本件においては、A車は、衝突の直前に至るまで、前照灯を点灯して進行中の被告人車に気付いた様子もなく、被告人車の進行車線を無灯火で逆行するという異常な行動を採っているため、対向車の運転者としては、A車がいつどのような行動に出るかを判断できず、Aが衝突の危険を察知した場合にろうばいの余りかえって危険な行動に出る可能性すら懸念されるところである。しかも、原判決が判示するように、被告人車の時速は四〇キロメートル、A車の時速は三五キロメートル、視認可能距離は約二四・五メートルないし三〇メートルであったとするならば、視認可能となった時点から衝突までは約一・二秒ないし一・四秒しかなく、警音器を吹鳴するなどしてAの注意を喚起する時間的余裕のなかったことも明らかであって、結局、被告人において原判決が視認可能とする地点で直ちにA車を発見し、これを注視していたとしても、同車のその後の進路を予測することは困難であるというほかはない。まして、夜間、無灯火で自車の進行車線を逆行して来る車両があるなどということは通常の予測を超える異常事想であって、突如自車の進路上に対向車を発見した運転者の驚がく、ろうばいを考慮すれば、到底、右約一・二秒ないし一・四秒の間に回避が可能であるなどといえないことも、経験則上明らかである。もっとも、被告人車及びA車と同車種の車両を使用した原審鑑定人Bの実験結果によれば約五九・九メートルの距離で対向車をはっきり視認できたというのであるが、その場合でも右速度で進行した場合の衝突までの時間は約二・九秒にすぎず、記録によればAは当時血液一ミリリットル当たり一・七三ミリグラムという相当多量のアルコールを身体に保有していたことが認められ、同人に状況に応じた適切な措置を期待し難いことをも考慮すると、右距離でA車を発見してその動向を注視するとともに、警音器を吹鳴するなどAの注意を喚起する措置を併せて講じたとしても、必ずしもA車の進路の予測が可能となったとはいえず、被告人において本件事故を確実に回避することができたとはいえない。

 四 以上のとおり、被告人において前方注視を怠っていなければ本件事故を回避することが可能であったとはいえず、また、他に被告人に注意義務違反があったとも認められないから、本件事故につき被告人に過失があったとはいえない。したがって、その余の点について判断するまでもなく、被告人に前記過失があるとした第一審判決及びこれを是認した原判決には、判決に影響を及ぼすべき法令違反ないし重大な事実誤認があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。そして、本件については、既に第一、二審において必要と考えられる審理は尽くされているので、当審において被告事件について更に判決するのが相当である。

 よって、刑訴法四一一条一号、三号により原判決及び第一審判決を破棄し、本件公訴事実については犯罪の証明がないから、同法四一三条ただし書、四一四条、四〇四条、三三六条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

 検察官杉原弘泰 公判出席

  平成四年七月一〇日

     最高裁判所第二小法廷

         裁判長裁判官    大   西   勝   也

            裁判官    藤   島       昭

            裁判官    中   島   敏 次 郎

            裁判官    木   崎   良   平

最決平22.10.26日空駿河湾上空ニアミス

平成20()920 業務上過失傷害被告事件 平成221026日 第一小法廷 決定 棄却 刑集 第6471019

 

東京高等裁判所 平成18()1318 平成20411

 

判示事項

航行中の航空機同士の異常接近事故について,便名を言い間違えて降下の管制指示をした実地訓練中の航空管制官及びこれを是正しなかった指導監督者である航空管制官の両名に業務上過失傷害罪が成立するとされた事例

裁判要旨

航行中の航空機甲機及び乙機が著しく接近し,両機の衝突を避けるために急降下した甲機の乗客らが負傷した事故について,実地訓練中の航空管制官において両機が異常接近しつつあることを知らせる警報を認知して巡航中の乙機を降下させることを意図しながら便名を言い間違えて上昇中の甲機に対し降下指示をし,その指導監督者である航空管制官においてこれに気付かず直ちに是正をしなかったことは,ほぼ同じ高度から甲機が同指示に従って降下すると同時に乙機も航空機衝突防止装置により発せられる降下指示に従って降下し,両機の接触,衝突等を引き起こす高度の危険性を有する行為であって,これと上記事故との間の因果関係も認められ,かつ,上記航空管制官両名において,両機が共に降下を続けて異常接近し,両機の機長が接触,衝突を回避するため急降下を含む何らかの措置を余儀なくされることを予見できたという本件事実関係(判文参照)の下では,上記航空管制官両名につき,両機の接触,衝突等の事故の発生を未然に防止するという業務上の注意義務を怠った過失があったものとして,それぞれ業務上過失傷害罪が成立する。
(補足意見,反対意見がある。)

参照法条

刑法(平成13年法律第138号による改正前のもの)211条前段

 

主 文

本件各上告を棄却する。

 

理 由

第1 上告趣意に対する判断

被告人Aの弁護人鍜治伸明,同米倉勉の上告趣意は,判例違反をいう点を含め,実質は事実誤認,単なる法令違反,量刑不当の主張であり,被告人Bの弁護人藤井成俊の上告趣意は,憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は事実誤認,単なる法令違反の主張であり,被告人B本人の上告趣意は,事実誤認の主張であって,いずれも刑訴法405条の上告理由に当たらない。

 

第2 職権判断

所論にかんがみ,被告人両名に対する業務上過失傷害罪の成否について,職権で判断する。

本件の事実関係

原判決の認定及び記録によれば,本件の事実関係は,次のとおりである。

(1) 被告人両名の地位,職責

被告人両名は,本件当時,国土交通省東京航空交通管制部所属の航空管制官であり,被告人Aは,同管制部において,被告人Bの指導監督を受けながら,南関東空域においてレーダーを用いる航空路管制業務を行うために必要とされる技能証明を取得するための実地訓練として,自ら管制卓に着き,担当空域である上記空域の航空交通の安全確保のため,航行中の航空機に対し飛行の方法について必要な指を与えるなどの航空路管制業務に従事し,被告人Bは,被告人Aが上記実地訓練を行うに当たり,その訓練監督者として同被告人の指導監督を行い,担当空域である上記空域の航空交通の安全確保のため,航行中の航空機に対し飛行の方法について必要な指示を与えるなどの航空路管制業務に従事していた。

航空管制官が管制業務を遂行するに当たり準拠すべきものとされている航空保安業務処理規程によれば,管制間隔とは,「航空交通の安全かつ秩序ある流れを促進するため航空管制官が確保すべき最小の航空機間の空間をいう。」と定義された上で,「業務の優先順位は,管制間隔の設定を第一順位とし,その他の業務は次順位とする。」と定められ,本件当時,2万9000フィートを超える高度の空域において,管制官が確保すべき管制間隔は,2000フィート(約610m)の垂直間隔又は5海里(約9260m)の水平間隔とされていた。

(2) 航空機衝突防止装置の機能及び被告人両名の知識

航空機衝突防止装置(以下「TCAS」という。)は,相手機との電波の送受信による情報を基に,航空機双方の方位,相対速度,高度及び距離を自動的に算出して衝突の可能性の有無を計算し,衝突するおそれがある双方の航空機の機長ら乗組員に対して,上下に相反する回避措置を採るようそれぞれ音声により指示する機能などを有する装置である(以下,TCASが発する回避措置の指示を「RA」という。)

被告人両名は,本件当時,TCASの機能の概要や,ボーイング747-400D型旅客機及びダグラスDC10-40型旅客機を含む一定以上の規格の航空機にTCASが装備されていることについての知識を有していた。

(3) RAと管制官の指示との関係

本件当時,航空機の運航のため必要な情報を航空機乗組員に対し提供するものとして航空法に基づき国土交通省航空局が発行していた航空情報サーキュラーは,「RAにより管制指示高度からの逸脱を行う場合,パイロットは航空法96条1項の違反には問われない。」と規定するのみで,RAと管制指示が相反した場合の優先順位について規定していなかった。また,日本航空株式会社の運航規定であるオペレーションズ・マニュアル・サプルメントでは,「RAが発生した場合は,機長がRAに従って操作を行うことが危険と判断した場合を除き,RAに直ちに従うこと」と規定されていた。

(4) 本件の発生状況

平成13年1月31日午後3時54分15秒ころ,静岡県焼津市付近上空において,東方から西方に向かい高度約3万6800フィート(管制卓レーダー画面上は3万6700フィートと表示)を高度約3万9000フィートに向け上昇していた日本航空株式会社所属のボーイング747-400D型旅客機日本航空907便(以下「907便」という。)が,その飛行計画経路に従って左旋回を開始したことにより,折から飛行計画経路に従ってその南方を西方から東方に向かい巡航高度約3万7000フィートで航行していた同社所属のダグラスDC10-40型旅客機日本航空958便(以下「958便」という。)に急接近したため,管制卓レーダー画面上に両機間の管制間隔が欠如するに至ることを警告する異常接近警報が作動し,両機がそのまま飛行を継続すれば,両機間の管制間隔が欠如してほぼ同高度で交差して接触,衝突するなどのおそれが生じた。

このような場面においては,上昇中の907便よりも早く降下に移ることができる巡航中の958便に対して降下指示を直ちに行うことが最も適切な管制指示であったところ,被告人Aは,上記異常接近警報を認知し,958便を高度約3万5000フィートまで降下させる指示を出すことを意図したが,便名を907便と言い間違えて,同日午後3時54分27秒ころから32秒ころにかけて,約3万7000フィートを巡航している958便とほぼ同高度を上昇中の907便に対し高度3万5000フィートまで降下するよう指示した(以下「本件降下指示」ということがある。)。なお,907便の副操縦士が,英語で「日本航空907便,3万5000フィートに降下します。関連機を視認しています。」という意味の応答をして,被告人Aの指示を復唱したものの,被告人Aは,便名の言い間違いに気付かなかった。被告人Bも,これらのやり取りを聞いていたが,被告人Aが958便に対し降下指示をしたものと軽信し,便名の言い間違いに気付かなかった。

907便の機長であったC(以下「C機長」という。)は,上記復唱のころに,907便を降下させるための操作を開始したところ,同日午後3時54分35秒ころ,907便に装備されていたTCASが,上方向への回避措置の指示(以下「上昇RA」という。)を発した。

C機長は,上昇RAが発せられていることを認識したが,958便を視認しており,目視による回避操作が可能と考えたこと,907便は既に降下の体勢に入っていたこと,958便の上を十分高い高度で回避することが必要であるところ,上昇のためには,エンジンを加速し,その加速を待って機首を上げる操作をしなければならないが,降下の操作によりエンジンをアイドルに絞っていたため,エンジンの加速に時間が掛かると思ったこと,空気が薄い高々度において,不十分な推力のまま不用意に機首上げ操作を行うと,速度がどんどん減ってしまい,場合によっては失速に至ってしまうという事態が考えられたこと,被告人Aによる降下指示があり,管制官は907便を下に行かせて間隔設定をしようとしていると考えたこと,958便がTCASを搭載しているか否か,それが作動しているか否か分からず,958便が必ずしも降下するとは考えなかったことを根拠に降下の操作を継続した。

なお,C機長が,上記の上昇RAに従った操作をしても,客観的には907便の航空性能からすると失速のおそれはなかったが,本件当時,航空性能に関する技術情報は,機長ら乗組員に対して十分に周知する措置が採られていなかったため,C機長は失速のおそれがないとの考えには至らなかった。

他方,同日午後3時54分34秒ころ,958便に装備されていたTCASが下方向への回避措置の指示(以下「降下RA」という。)を発し,同便の機長は,同指示に従って降下の操作を行った。

本件降下指示に従った907便と降下RAに従った958便は共に降下をしながら水平間隔を縮めて著しく接近し,同日午後3時55分6秒ころ,C機長は,両機の衝突を避けるために,急降下の操作を余儀なくされ,そのため,907便に搭乗中の乗客らが跳ね上げられて落下し,57名が負傷した(以下,乗客らの負傷の事実も含めて「本件ニアミス」という。)

同日午後3時55分11秒ころ,907便は,958便の下側約10mを通過してすれ違った。

当裁判所の判断

(1) 所論は,言い間違いによる本件降下指示は危険なものではなく過失行為に当たらず,本件ニアミスは,上昇RAに反した907便の降下という本件降下指示後に生じた異常な事態によって引き起こされたものであるから,本件降下指示と本件ニアミスとの間には因果関係がない上に,被告人両名において,907便と958便が共に降下して接近する事態が生じることを予見できなかったのであるから,被告人両名に対して業務上過失傷害罪が成立しない旨主張する。

(2) そこで検討すると,上記1(1)のとおり,被告人Aが航空管制官として担当空域の航空交通の安全を確保する職責を有していたことに加え,本件時,異常接近警報が発せられ上昇中の907便と巡航中の958便の管制間隔が欠如し接触,衝突するなどのおそれが生じたこと,このような場面においては,巡航中の958便に対して降下指示を直ちに行うことが最も適切な管制指示であったことを考え合わせると,被告人Aは本来意図した958便に対する降下指示を的確に出すことが特に要請されていたというべきであり,同人において958便を907便と便名を言い間違えた降下指示を出したことが航空管制官としての職務上の義務に違反する不適切な行為であったことは明らかである。そして,この時点において,上記1(2)アのとおりのTCASの機能,同(4)アのとおりの本件降下指示が出されたころの両機の航行方向及び位置関係に照らせば,958便に対し降下RAが発出される可能性が高い状況にあったということができる。このような状況の下で,被告人Aが言い間違いによって907便に降下指示を出したことは,ほぼ同じ高度から,907便が同指示に従って降下すると同時に,958便も降下RAに従って降下し,その結果両機が接触,衝突するなどの事態を引き起こす高度の危険性を有していたというべきであって,業務上過失傷害罪の観点からも結果発生の危険性を有する行為として過失行為に当たると解される。被告人Aの実地訓練の指導監督者という立場にあった被告人Bが言い間違いによる本件降下指示に気付かず是正しなかったことも,同様に結果発生の危険性を有する過失行為に当たるというべきである。

また,因果関係の点についてみると,907便のC機長が上昇RAに従うことなく降下操作を継続したという事情が介在したことは認められるものの,上記1(3)のとおりの管制指示とRAが相反した場合に関する規定内容や同(4)エのとおりの降下操作継続の理由にかんがみると,同機長が上昇RAに従わなかったことが異常な操作などとはいえず,むしろ同機長が降下操作を継続したのは,被告人Aから本件降下指示を受けたことに大きく影響されたものであったといえるから,同機長が上昇RAに従うことなく907便の降下を継続したことが本件降下指示と本件ニアミスとの間の因果関係を否定する事情になるとは解されない。そうすると,本件ニアミスは,言い間違いによる本件降下指示の危険性が現実化したものであり,同指示と本件ニアミスとの間には因果関係があるというべきである。

さらに,被告人両名は,異常接近警報により907便と958便が異常接近しつつある状況にあったことを認識していたのであるから,言い間違いによる本件降下指示の危険性も認識できたというべきである。また,上記1(2)イのとおりのTCASに関する被告人両名の知識を前提にすれば,958便に対して降下RAが発出されることは被告人両名において十分予見可能であり,ひいては907便と958便が共に降下を続けて異常接近し,両機の機長が接触,衝突を回避するため急降下を含む何らかの措置を採ることを余儀なくされ,その結果,乗客らに負傷の結果が生じることも予見できたと認められる。

以上によれば,被告人Aの言い間違いによる本件降下指示は,便名を言い間違えることなく958便に対して降下指示を与えて,原判決罪となるべき事実にいう907便と958便の接触,衝突等の事故の発生を未然に防止するという航空管制官としての業務上の注意義務に違反したものであり,被告人Bが,被告人Aが958便に対し降下指示をしたものと軽信して,その不適切な管制指示に気付かず是正しなかったことも,被告人Aによる不適切な管制指示を直ちに是正して上記事故の発生を未然に防止するという,被告人Aの実地訓練の指導監督者としての業務上の注意義務に違反したものというべきである。そして,これら過失の競合により,本件ニアミスを発生させたのであって,被告人両名につき業務上過失傷害罪が成立する。これと同旨の原判断は相当である。

なお,本件ニアミスが発生した要因として,管制官の指示とRAが相反した場合の優先順位が明確に規定されていなかったこと,航空機の性能についてC機長に周知されていなかったという事情があったことも認められる。しかし,それらの事情は,本件ニアミス発生の責任のすべてを被告人両名に負わせるのが相当ではないことを意味するにすぎず,被告人両名に対する業務上過失傷害罪の成否を左右するものではない。

よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官櫻井龍子の反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。なお,裁判官宮川光治の補足意見がある。

 

裁判官宮川光治の補足意見は,次のとおりである。

被告人Aは,間もなく成田に着陸予定で高度約3万7000フィートを巡航中であった958便に対し降下指示を出すべきところ,便名を907便と言い間違え,ほぼ同高度を約3万9000フィートに向け上昇中の那覇行き907便に降下指示を出した。同人の指導監督者であった被告人Bも言い間違いに気付かず,是正しなかった。正しく管制指示がされていれば,958便の機長はこれに従い降下操作を開始し,他方,907便は上昇中であったのであるから,両機はやがて安全な管制間隔を回復することができ,衝突の危険は生じなかった。被告人Aの降下指示の数秒後に作動した両機のTCASは,958便に対し降下RA,907便に対し上昇RAを発しているが,これらとも一致し,円滑に管制間隔の回復は進んだとみることができる。しかしながら,被告人Aが管制指示を誤ったこと及び被告人Bが訓練監督者としてこれを是正しなかった結果,907便は降下RAに従って降下する958便と異常に接近し,衝突の危険が生じたのであるから,被告人両名の行為は実質的に危険性のある行為であったというべきであると思われる。

所論は,被告人Aの管制指示に従って907便が降下し,958便が巡航していれば,両機の水平間隔がゼロの地点で,垂直間隔は約1000フィート確保されていたのであるから,被告人Aの管制指示には過失行為と評価すべき実質的危険性はないとしている。しかしながら,被告人両名は,本件両旅客機を含む一定以上の規格の航空機にTCASが装備されていることについての知識を有し,RAに関する知見もあったと認められるところ,TCASは衝突を回避するための合理的操作を指示するのであるから,被告人Aが管制指示を出した前後には,両機にRAが発出されること,及び958便には降下RAが,907便には上昇RAが発出されることは容易に予見できたというべきである。958便の機長が降下RAに従い降下操作をすることは当然予見でき,漫然と巡航操作を維持し続けるということは,現実的には考え難い事態である。所論は,失当である。

907便には上昇RAが発出されたが,同便のC機長はこれに従わず,降下操作を続けた。この当時,RA優先主義は徹底しておらず,明確なルールはなかったとみることができる。そうした状況で,C機長が,被告人Aから降下指示を受け既に降下操作を行って降下の体勢に入っていたこと等を考慮し,自らの判断で合理的と考えた結果として,RAとは異なる管制指示に従った操作を選択したことを,因果関係を遮断するほどの異常な介在事情であると評価することは相当でないと思われる。

本件は,そもそも,被告人両名が航空管制官として緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である。被告人両名は異常接近警報が作動してそれまで失念していた958便の存在に気付き動揺したこともあって言い間違いをし,かつ言い間違いをしたことに気付かなかったものと認められるが,そうした切迫した状況下では,管制官には,平時にもまして冷静沈着に,誤りなき指示を出すということが求められているというべきである。被告人Aは,訓練生であったが,過ちが許容されるわけではない。とくに,被告人Bは,訓練監督者として,被告人Aの管制指示に誤りがないかを常に注意していなければならないのに,見逃している。さらに,被告人両名は,907便からの復唱があったときにも誤りに気付かなかったというのであり,本件では,不注意が重なっている。幸いにも,両機が接触・衝突して大惨事となる事態を間一髪回避できたが,多数の乗客が負傷しており,その結果は重大であり,被告人両名の行為を看過することは相当でない。

本件では,所論が指摘しているとおり,管制官のヒューマンエラーを事故に結び付けないようにするためのシステムの工夫が十分でなかったことは確かである。しかし,管制官としては,行為時における所与の条件の下で,求められている注意義務を尽くすべきであり,怠った場合は刑法上の過失責任を問われることがあり得るものであろう。上記のようなシステム上の問題は,本件事案においては,被告人両名について過失の成立を妨げるようなものではなく,情状として考慮することがあり得るにとどまるものである。また,事故の原因を調査する専門的機関と捜査機関の協力関係に関しては検討すべき課題があるが,本件のような行為について,刑事責任を問わないことが,事故調査を有効に機能させ,システムの安全性の向上に資する旨の所論は,政策論・立法論としても,現代社会における国民の常識に適うものであるとは考え難く,相当とは思われない。

 

裁判官櫻井龍子の反対意見は,次のとおりである。

私は,被告人Aの便名の言い間違いによる本件降下指示が,航空管制官としての職務上の義務に違反する不適切な行為であり,多数の乗客,乗員が負傷するという本件ニアミスのきっかけになっていることを否定するものではない。しかし,本件ニアミスについて,被告人両名に結果発生の予見可能性があったことを認め,さらに,本件降下指示と本件ニアミスとの間に法的な意味での因果関係があるものと認めた原判断は,事実の認定に重大な誤りがあり,被告人Aによる本件降下指示及びそれを是正しなかった被告人Bの不作為について過失責任を問うことはできないと考える。その理由は,次のとおりである。

まず,予見可能性について見ると,本件ニアミスは,TCASが作動しRAが発出された後,907便と958便がほぼ同時に降下を始めたため急接近し,衝突を避けるべく907便が急降下を行ったことから発生したものであることは証拠上明らかであるところ,多数意見は,本件降下指示の時点で両機が異常接近しつつある状況にあったことや,TCASの機能の概要やその装備状況に関する被告人両名の知識を前提にすれば,予見可能性が認められるとしている。しかし,本件当時,TCASが作動しRAが発出されたか否かについて,管制卓レーダー画面などを通じて管制官が即座に確実に把握できるシステムは構築されておらず(本件後,管制卓レーダー画面にRA作動の情報を表示することが,航空・鉄道事故調査委員会により勧告されている。),実際に,被告人両名が両機におけるRAの発出に関する連絡を受けたのは本件ニアミス発生後である。このようにTCASがいつ,いかなるRAを発するかについて具体的な情報が航空管制官に提供されるシステムにはなっていなかったことに照らすと,TCASの機能の概要等を知っていたにすぎない被告人両名において,両機へのRAの発出時期及びその内容を具体的に予見することができたと認めることはできない。また,TCASに関する被告人両名の知識を前提に,RAが両機に発せられること自体はある程度予見できたとしても,そもそもTCASは,航空機が異常接近しつつある状況の中で,一方の機に上昇の,他方に降下の指示を出すことによって衝突を防止する装置なのであるから,その指示に反することは極めて危険な行為であって,907便が上昇RAに反して降下を続けたということは,被告人両名にとって予想外の異常な事態であったといってよいと思われる。したがって,958便が降下RAに従って降下し,907便も上昇RAに従わずに降下することによって,両機が異常接近することについて,過失犯としての処罰を基礎付けるほどの予見可能性を被告人両名に認めることはできないというべきである。

次に,因果関係について見ると,907便の機長が上昇RAに従わずに降下継続という判断をした根拠は多数意見において述べられているとおりであり,本件降下指示がその判断に影響していることは否定できないとしても,同機長は本件降下指示以外の諸事情も考慮した上で降下継続を独自に決断したものであること(同機長自身も,降下継続は自らの判断であった旨供述している。)に加え,次のような安全確保のために本来採られているべきであった措置が講じられていなかったという事情が存在する。すなわち, 降下継続の根拠の一つとして,失速に至るおそれがあると同機長において考えたことがあるが,それは客観的には誤っており,その背景には,周知されているべきであった907便の航空性能が十分周知されていなかったという問題があった。 前記のとおりの上下反対方向の指示を発出して衝突等を防止するというTCASの機能にかんがみれば,当然の事理として,管制官の指示とRAが相反した場合にはRAが優先し,RAに反する操作は非常に危険なものであることを航空行政当局や航空会社において明らかにし(本件後,RAが原則として優先することとされている。),その教育・訓練がされているべきであったのに,それらは不十分なものにとどまっていた。これらのことを考え合わせると,上記機長の判断は本来提供されるべき情報が提供されていなかった結果生じた客観的には誤った判断であって,上昇RAに反した907便の降下継続は,法的な意味での因果関係の有無を検討する上では,異常な介在事情と評価するのが相当であり,本件降下指示と本件ニアミスとの因果関係は認められないというべきである。

以上のとおり,予見可能性及び因果関係が認められないから,本件降下指示及びこれを是正しなかったことについて過失責任を問うことはできないものと考える。

最後に,本件の特性にかんがみ,以下の点を付言しておきたい。

そもそも本件ニアミスの発生原因を総合的に判断すると,航空管制では間に合わないような接近事例における衝突等回避のためのいわば最後の砦として,TCASを一定規模以上の航空機に搭載することが義務付けられたにもかかわらず,管制指示とRAが相反した場合の優先関係という最も重要かつ基本的な運用事項が明確に定められていなかったことが,本件ニアミスに関連することは明らかである(TCAS開発を主導した米国の航空マニュアル等にはRAが管制指示に優先することが明記されていた。)。航空機の運航のように複雑な機械とそれを操作する人間の共同作業が不可欠な現代の高度システムにおいては,誰でも起こしがちな小さなミスが重大な事故につながる可能性は常にある。それだからこそ,二重,三重の安全装置を備えることが肝要であり,その安全装置が十全の機能を果たせるよう日々の努力が求められるというべきである。また,所論は,本件のようなミスについて刑事責任を問うことになると,将来の刑事責任の追及をおそれてミスやその原因を隠ぺいするという萎縮効果が生じ,システム全体の安全性の向上に支障を来す旨主張するが,これは今後検討すべき重要な問題提起であると考える。

( 裁判長裁判官宮川光治補足意見 裁判官櫻井龍子反対意見 裁判官金築誠志 裁判官横田尤孝 裁判官白木勇)

最決平29.6.12福知山線

平成27()741 業務上過失致死傷被告事件 平成29612日 第二小法廷 決定 棄却 刑集 第715315

 

大阪高等裁判所 平成25()1335 平成27327

 

判示事項

曲線での速度超過により列車が脱線転覆し多数の乗客が死傷した鉄道事故について,鉄道会社の歴代社長らに業務上過失致死傷罪が成立しないとされた事例

裁判要旨

快速列車の運転士が制限速度を大幅に超過し,転覆限界速度をも超える速度で同列車を曲線(本件曲線)に進入させたことにより同列車が脱線転覆し,多数の乗客が死傷した鉄道事故について,同事故以前の法令上,曲線に自動列車停止装置(ATS)を整備することは義務付けられておらず,大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかったこと,同列車を運行する鉄道会社の歴代社長らが,管内に2000か所以上も存在する同種曲線の中から,特に本件曲線を脱線転覆事故発生の危険性が高い曲線として認識できたとは認められないこと等の本件事実関係(判文参照)の下では,歴代社長らにおいて,ATS整備の主管部門を統括する鉄道本部長に対しATSを本件曲線に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったとはいえない。
(補足意見がある。)

参照法条

刑法(平成18年法律第36号による改正前のもの)211条1項前段

 

主 文

本件各上告を棄却する。

 

理 由

検察官の職務を行う指定弁護士河瀬真,同奥見はじめ,同佐々木伸の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でなく,その余は,単なる法令違反,事実誤認の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。

所論に鑑み,職権により判断する。

本件公訴事実の要旨

(1) 被告人Aは平成4年6月から平成9年3月までの間,被告人Bは平成9年4月から平成15年4月までの間,被告人Cは平成15年4月から平成18年2月までの間,それぞれ西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)の代表取締役社長として会社の業務執行を統括し,運転事故の防止についても経営会議等を通じて必要な指示を与えるとともに,社内に設置された総合安全対策委員会委員長として,運転事故対策についての基本方針や特に重大な事故の対策に関する審議を主導して鉄道の運行に関する安全体制を確立し,重大事故を防止するための対策を講ずるよう指揮すべき業務に従事していた。

(2) JR西日本では,東西線開業に向けて,福知山線から東西線への乗り入れを円滑にする等の目的で,福知山線と東海道線を立体交差とするなどの尼崎駅構内の配線変更を行い,これに付帯して,福知山線上り線路の右方に湾曲する曲線(以下「本件曲線」という。)の半径を600mから304mにし,その制限時速が従前の95kmから70kmに変更される線形変更工事(以下「本件工事」という。)を施工した(平成8年12月完成,平成9年3月運行開始)。本件工事により,通勤時間帯の快速列車の本件曲線における転覆限界速度は時速105kmから110km程度に低減し,本件曲線手前の直線部分の制限時速120kmを下回るに至った。加えて,前記運行開始に伴うダイヤ改正により,1日当たりの快速列車の本数が大幅に増加し,運転士が定刻運転のため本件曲線の手前まで制限時速120km又はこれに近い速度で走行する可能性が高まっていたので,運転士が何らかの原因で適切な制動措置をとらないままこのような速度で列車を本件曲線に進入させた場合には,脱線転覆する危険性が差し迫っていた。

(3) 被告人らは,以上の各事情に加え,JR西日本では半径450m未満の曲線に自動列車停止装置(ATS)を整備しており,本件工事によって本件曲線の半径がこれを大幅に下回ったことや,過去に他社の曲線において速度超過による脱線転覆事故が複数発生していたこと等を認識し,又は容易に認識することができたから,運転士が適切な制動措置をとらないまま本件曲線に進入することにより,本件曲線において列車の脱線転覆事故が発生する危険性を予見できた。

(4) したがって,被告人Aは本件工事及び前記ダイヤ改正の実施に当たり,被告人Bは平成9年4月の社長就任後速やかに,被告人Cは自ら福知山線にATSを整備する工事計画を決定した平成15年9月29日の経営会議又は遅くとも同年12月以降に行われたダイヤ改正の際,それぞれ,JR西日本においてATS整備の主管部門を統括する鉄道本部長に対し,ATSを本件曲線に整備するよう(被告人CはATSを本件曲線に優先的に整備するよう)指示すべき業務上の注意義務があったのに,被告人らはいずれもこれを怠り,本件曲線にATSを整備しないまま,列車の運行の用に供した。

(5) その結果,平成17年4月25日午前9時18分頃,福知山線の快速列車を運転していた運転士が適切な制動措置をとらないまま,転覆限界速度を超える時速約115kmで同列車を本件曲線に進入させた際,ATSによりあらかじめ自動的に同列車を減速させることができず,同列車を脱線転覆させるなどして,同列車の乗客106名を死亡させ,493名を負傷させた(以下,同事故を「本件事故」という。)

 

前提事実

原判決及びその是認する第1審判決の認定並びに記録によれば,本件の事実関係は次のとおりである。

(1) 本件事故の直接の原因は,運転士が,本件曲線の制限時速70kmを大幅に超過し,転覆限界速度をも超える時速約115kmで本件曲線に進入したことにある。

(2) ATSは,線路上に設置された地上子と車両に装備された車上子の間で,進路前方の信号現示や速度制限箇所などの情報をやり取りし,運転室内に警報ベルを鳴らして運転士に注意を喚起したり,自動的にブレーキを作動させたりする保安装置である。昭和37年,列車が停止信号に従わなかったため生じた重大死傷事故を契機として,かかる信号冒進を防止するため,ATSが全国的に整備された。その後,列車の速度を照査し,一定の速度を超過すれば自動的に列車の運行をブレーキ制御する速度照査機能を付加するなどした改良型ATSが開発され,昭和62年以降,順次整備されてきた。

速度照査機能を備えたATSは,信号冒進のみならず,曲線等での速度超過の防止に用いることが可能であり,本件事故後に改正された国土交通省令及びその解釈基準等(以下「新省令等」という。)では,転覆危険率を指標として,駅間最高速度で進入した場合に転覆のおそれのある曲線にかかるATS等を整備すべきこととされたが,本件事故以前の法令上は,ATSに速度照査機能を備えることも,曲線へのATS整備も義務付けられてはいなかった。また,本件事故以前に曲線にATSを自主的に整備していた鉄道事業者は,JRではJR西日本を含む3社,私鉄では113社中13社に止まっており,大半の鉄道事業者は,曲線にATSを整備していなかった。本件事故前に曲線にATSを整備していた鉄道事業者の設置基準はまちまちで,新省令等で示された転覆危険率のような統一的な尺度は存在せず,各鉄道事業者における本件事故以前の実際の整備対象も,転覆危険率により導かれる転覆の危険の有無とは必ずしも相関していなかった。

(3) JR西日本の職掌上,保安設備であるATSの整備計画は,鉄道本部安全対策室が所管し,鉄道本部長が統括することとされており,曲線へのATS整備も鉄道本部長に委ねられていた。鉄道本部では,改良型ATSの整備を線区単位で順次進めてきており,福知山線についても本件曲線を対象に含めて整備が進められていたものの,本件事故当時はまだ完成しておらず,実際に供用が開始されたのは本件事故の約2か月後の平成17年6月であった。

(4) 本件曲線の転覆危険率は,駅間最高速度で曲線に進入したときに曲線外側に転覆するおそれがあるとされる数値を上回っており,新省令等によれば,本件曲線も速度照査機能を備えたATSを設置すべき対象に当たる。

しかしながら,JR西日本はもとより,本件事故以前から曲線にATSを整備していた国内の他の鉄道事業者においても,整備対象の選定に当たり転覆危険率を用いた脱線転覆の危険性の判別は行われていなかった上,JR西日本管内に半径300m以下の曲線は2000か所以上存在しており,それ自体珍しいものではなく,その中で特に本件曲線における脱線転覆の危険性が他の曲線に比べて高いという認識がJR西日本の組織内で共有されたことはなく,被告人らも本件曲線を脱線転覆の危険性のある曲線として認識したことはなかった。

 

当裁判所の判断

(1) 本件公訴事実は,JR西日本の歴代社長である被告人らにおいて,ATS整備の主管部門を統括する鉄道本部長に対し,ATSを本件曲線に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったのに,これを怠ったというものであり,被告人らにおいて,運転士が適切な制動措置をとらないまま本件曲線に進入することにより,本件曲線において列車の脱線転覆事故が発生する危険性を予見できたことを前提とするものである。

しかしながら,本件事故以前の法令上,ATSに速度照査機能を備えることも,曲線にATSを整備することも義務付けられておらず,大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかった上,後に新省令等で示された転覆危険率を用いて脱線転覆の危険性を判別し,ATSの整備箇所を選別する方法は,本件事故以前において,JR西日本はもとより,国内の他の鉄道事業者でも採用されていなかった。また,JR西日本の職掌上,曲線へのATS整備は,線路の安全対策に関する事項を所管する鉄道本部長の判断に委ねられており,被告人ら代表取締役においてかかる判断の前提となる個別の曲線の危険性に関する情報に接する機会は乏しかった。JR西日本の組織内において,本件曲線における脱線転覆事故発生の危険性が他の曲線におけるそれよりも高いと認識されていた事情もうかがわれない。

したがって,被告人らが,管内に2000か所以上も存在する同種曲線の中から,特に本件曲線を脱線転覆事故発生の危険性が高い曲線として認識できたとは認められない。

(2) なお,指定弁護士は,本件曲線において列車の脱線転覆事故が発生する危険性の認識に関し,「運転士がひとたび大幅な速度超過をすれば脱線転覆事故が発生する」という程度の認識があれば足りる旨主張するが,前記のとおり,本件事故以前の法令上,ATSに速度照査機能を備えることも,曲線にATSを整備することも義務付けられておらず,大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかったこと等の本件事実関係の下では,上記の程度の認識をもって,本件公訴事実に係る注意義務の発生根拠とすることはできない

(3) 以上によれば,JR西日本の歴代社長である被告人らにおいて,鉄道本部長に対しATSを本件曲線に整備するよう指示すべき業務上の注意義務があったということはできない。したがって,被告人らに無罪を言い渡した第1審判決を是認した原判断は相当である。

よって,刑訴法414条,386条1項3号により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。なお,裁判官小貫芳信補足意見がある。

 

裁判官小貫芳信補足意見は,次のとおりである。

私は,法廷意見に賛同するものであるが,所論に鑑み,意見を付加しておきたい。

本件は,被告人らが,「ATS整備の主管部門を統括する鉄道本部長に対し,ATSを本件曲線に整備するよう(被告人CについてはATSを本件曲線に優先的に整備するよう)指示すべき業務上の注意義務」を負っていたのに,これを怠ったとされる事案である。このような注意義務ないし結果回避義務があるというためには,被告人らにその義務を課すに足りる程度の認識ないし予見可能性がなければならない。この点,本件公訴事実は,「被告人らは,運転士が適切な制動措置をとらないまま本件曲線に進入することにより,本件曲線において列車の脱線転覆事故が発生する危険性を予見できた。」としているところ,これは,JR西日本管内に数多くある曲線のうち,本件曲線に特化された脱線転覆事故発生の危険性の認識と考えるのが相当である(脱線転覆事故発生の危険性の認識があれば,それによる乗客等の死傷の結果についても当然予見可能といえる。)

以上を前提として,本件における予見可能性の有無について検討してみると,以下のとおりである。本件公訴事実には,被告人らが前記のような予見可能性を有していたことを基礎付ける事実として,尼崎駅構内の配線変更に伴う本件工事により,本件曲線の半径が減少し,制限速度が低減したこと,JR西日本では,半径450m未満の曲線にATSの整備を進めており,本件工事によって本件曲線の半径がこれを大幅に下回ったこと,過去に他社の曲線において速度超過による脱線転覆事故が複数発生していたこと,ダイヤ改正により,快速列車の本数が大幅に増加したことが挙げられている。しかし,被告人らが仮にそのような事実を認識していたとしても,本件曲線より半径が短い曲線が2000か所以上も存在する中で,それらの曲線に比べて,特に本件曲線に対する危険性ないしATS設置の必要性を認識できたことに直ちに結びつくとはいえないように思われる。

かえって,本件には,法廷意見が説示するように,本件事故以前の法令上,ATSに速度照査機能を備えることも,曲線にATSを整備することも義務付けられておらず,大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかった等々,本件曲線における事故発生の危険性を認識し,鉄道本部長にATS整備を指示すべき義務があったというには障害となる諸事情が存在する。さらに,JR西日本においては,本件曲線を含めた線区に対するATS整備工事の施工途中であったことに照らすと,本件曲線の危険性を認識しながらあえて安全性を無視して本件曲線へのATS整備を先送りし,あるいはその危険性を認識すること自体を避けなければならない事情があったとは考えられない。

以上によれば,被告人らに本件曲線に特化された予見可能性を認めることは困難である。

ところで,所論は,大規模火災事例に関する当審判例を援用して,本件の原因事象に関する予見可能性も,「運転士がひとたび大幅な速度超過をすれば脱線転覆事故が発生する」という程度の危険性の認識があれば足りる旨も主張している。

一般に,運転士の曲線における制動の懈怠はあり得ることであり,したがって,転覆事故もあり得る事態であるという程度の認識をもって,曲線にATSを整備するよう指示すべき義務が生じるとすれば,JR西日本管内の数多くの曲線が同時にATSを整備すべき曲線に該当することとなる。しかし,そのように数多くの曲線に同時にATSを整備するよう刑罰をもって強制することは,本件事故以前の法令上,曲線にATSを整備することは義務付けられていなかったこと,大半の鉄道事業者は曲線にATSを整備していなかったこと等の本件事実関係の下では,過大な義務を課すものであって相当でない。どの程度の予見可能性があれば過失が認められるかは,個々の具体的な事実関係に応じ,問われている注意義務ないし結果回避義務との関係で相対的に判断されるべきものであろう。これを所論が援用する判例との関係でみると,火災発生の危険があることを前提として法令上義務付けられた防災体制や防火設備の不備を認識しながら対策を怠っていた等,一定の義務発生の基礎となる事情が存在する大規模火災事例における予見可能性の問題と,そのような事情が存在したとは認められない本件のそれを同視することは相当ではないと思われる。

(裁判長裁判官 山本庸幸 裁判官 小貫芳信補足意見 裁判官 鬼丸かおる 裁判官 菅野博之)

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